Smoke

煙草は完全な愉楽の、完全な典型である。

―ワイルド―

五月も半ばに入ったその日は、ほとんど初夏といっていいほどの陽気に恵まれた。

開け放った露台の窓から庭院を眺め、陽子は筆をくわえて頬杖をつく。

風も緑も申し分なく眩しい。身体を動かすにも街に降りるにも、およそ理想的な午後だった。――この後に続くものさえなければ。

まるで間合いを図ったように、軽く堂扉を叩く音がする。衝立から姿を現したのは予想通り、慶国で最も職務に忠実な州侯だった。

――やっぱり来たか……。

陽子は軽いため息とともに、景麒の腕の中に目をやる。

そこには結構な厚みを持った編冊が、しかも束になって抱えられていた。

「瑛州府からの月例報告です。予算については前月とほぼ同じく。春の異動も終わりましたので、官吏名簿を更新したものを添えておきました。州内各地の今年の作付面積については、来月早々に詳細が上がってくる予定です」

おおよその見積もりはこちらに、と言いながら景麒は身をかがめ、陽子の前に書類の束を置く。

通常の州であれば、王が直接ここまで詳細に目を通す必要はないのだが、首都尭天を置く瑛州の動向には慶国全体の動きが集約される。こうして月に一度上がってくる報告書には、陽子も必ず目を通すようにしていた。

ご苦労さま、とくぐもった声をかけながら、彼の袍が鼻先をかすめた瞬間、陽子は思わずくわえていた筆を膝に落とした。

「……煙草の匂いだ」

――香を焚きしめた袍の袖口から、場違いな印象とともに漂った残り香。

かすかな苦味を帯びたそれは、蓬莱でも覚えのある煙草の匂いに間違いなかった。

陽子はやや呆然として、自分の麒麟を見上げる。

ほんの少しきまり悪そうな表情で、景麒は書卓を挟んだ向かい側に腰を下ろした。

「お気に障りましたら、お許しを。匂い消しを含むのを忘れました」

「おまえ……煙草を吸うの」

「回数にすれば月に数度、それもごく少量でしかありませんが」

「……いつ、どうやって手に入れる」

「主上のご存じない、独自の伝手がございます」

知らなかった、と眉をひそめた陽子の表情を見逃さなかったらしい。景麒は咳払いとともに居住まいを正し、正面から陽子を見据えた。

こうしたときには例外なく、説教あるいは理詰めの反論が続くのだと長年の経験は教えている。

案の定、やがて景麒は重々しく口を開いた。

「一口に麒麟といっても千差万別。着飾るのが好きな麒麟もいれば、放浪癖のある麒麟もおります。わたしが多少喫煙したところで、それほど問題があるとは思えませんが」

「言い訳だな」

きっぱりと断じられて、景麒はわずかにむっとしたような顔をした。

筆を持った手をひらりと振って、陽子は天井を仰ぐ。

「何らかの中毒に陥った者は、皆同じことを言う。少しなら大丈夫、自分だけは例外だ――そう言いながらどんどん深みに嵌って、終いには引き返せなくなるんだ」

初夏の風が吹き込む窓辺には、金魚と水草を入れた玻璃の鉢が置かれている。

陽射しを弾くその水面が、天井で水紋を描いて揺らめくのを見上げながら、さようですか、と景麒が気のない返事をする。

それを見やって、陽子は厳かに続けた。

「よく聞きなさい。蓬莱にはWHOと呼ばれる機関があって、全人類の健康のために日々さまざまな啓蒙活動を行っている。彼らは毎年大々的にキャンペーン……つまり禁煙運動を推進して、世界の人々に健康意識の向上を促しているんだ。喫煙など百害あって一利なし。麒麟の清浄な肺を、おまえはどうしてわざわざ汚そうとする」

黙って聞いていた景麒は、唇の端に、妙に癪に障る微笑を浮かべた。――世界保健機構、ですか。

「使命自体は誠に崇高とお見受けしますが、酒にしろ煙草にしろ、所詮は嗜好品。これがなくては生きていけないというほどに溺れるのでなければ、それでよろしいのです。要は個々の心持ちの問題、いちいち咎め立てするのも大人気ないかと思われますが」

さあ、仕事にかかりましょう、と涼しい顔で書状を広げ始める彼を眺め、陽子は筆を置いて本格的に身を乗り出した。

「王と麒麟は半身だ。おまえの肺が汚れれば、わたしの健康にも害が及ぶ」

「――非科学的なことを」

「おまえが科学について何を知っているって言うんだ」

「主上と同じ程度、と申し上げればよろしいか」

「……。ストレス解消なら、身体を動かせばいい。剣の相手ならいつでもする」

「剣を振るう趣味はないと、最初の最初に申し上げたはず。それとも、それは勅命ですか」

「公共の利益に反しない限り、個々の思想および嗜好を最大限に保障するのは民主主義の基本。これはわたし個人の意見と受け取って欲しい」

「ありがたいお言葉ですが、王権政治の長が仰ったところでいささか説得力に欠けます。大体お傍にいるときに嗜みさえしなければ、主上には何ら差し障りございませんでしょう」

すでに勝利を確信してか、景麒の表情には余裕すら漂っている。

悔しがるでもなくそれを一瞥して、陽子はすっくりと椅子から立ち上がった。

「――それがわたしにも、差し障りは大有りなんだ」

ゆっくりとそう言いながら陽子は書卓に膝を突き、彼の前に広げられた書状を手で抑える。

至近距離から近々とこちらを見つめる瞳の、水草の緑にも似た色が視界を占め、景麒は思わず身を引いた。――その周りにこぼれる、金魚の鰭よりあざやかな赤い髪。

「これも個人的な嗜好なのだけれど、わたしは煙草の匂いが苦手なんだ。だからこうして近づきたいと思ったとき、この匂いは確実に、これ以上の接近を妨げてしまう」

景麒の耳にだけは甘やかに響くその声が、とどめのように囁いた。

「個人的に、それはとても……残念で悲しいことだ」

◆　　　　　　　　　　　　　　◆　　　　　　　　　　　　　　◆

――先に目を逸らした方が負けだ、と折伏の基本は語る。

なのに不甲斐なくも指先から筆は滑り落ち、膝に当たって床へと転がっていった。

軽やかなその音を聞きながら、景麒は沈黙の中で勝敗の行方を悟る。

折伏に喩えるなら、これは完璧な敗北だった。

「……禁煙、いたしましょう」

「よろしい」

陽子はにっこり笑って身を翻し、何事もなかったように向かいの椅子に座った。

「わたしの半身は素直なことで、大変に結構。ついでに一筆誓約状を書いておいてもらえると、さらにありがたい」

――何故そこまで。

返す言葉もなく墨の跡を拭きながら、景麒は足元に向かって声をかける。

「……班渠」

答えの代わりに返ってきたのは、笑いを堪えるような気配だった。それが主に悟られないように願いながら、景麒は不機嫌に続ける。

「仁重殿にある喫煙用具一式を、すみやかに廃棄するように。今すぐ即座に、ひとつ残らず」

――御意。

澄ました声が笑いの響きを残して床下へと消える。

「……これでご満足か」

「満足だ」

ありがとう、と涼しい顔で言う主を制止する気力もなく、景麒も黙然と筆を取った。

窓辺の水鉢で、金魚は相変わらずひらひらと泳ぎ続けている。

主の口元に会心の微笑が浮かんでいるのが顔を上げなくても手に取るように分かったが、もう言い返す言葉もなかった。

規則正しい音を立てて御璽を押しながら、やがてひとりごとのように呟いた主の声に、けれど景麒は再び手を止める。

窓を過ぎる初夏の風の中、聞き取れないほど小さく優しい声は、こんな風に囁いたのだった。

――蓬莱にいた頃、わたしの父も、煙草で身体を壊したことがあったんだよ、と。

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タイトルは、管理人の愛するハーヴェイ・カイテル主演の映画から。

大阪の陣を記念して、ヨウ香さまのイラストとのコラボレーション再び！でございます。先日の『青葉の時間』に続き、かようにとんでもない趣味を披露してしまった拙宅の台輔に、ヨウ香さまは今回も透明感溢れる美しいイラストを描いて下さいました。心からお礼を申し上げますとともに、ヨウ香さま、マドモアゼル方、この小編もどうぞご笑納下さいますよう…。