行け　わが思いよ　黄金の翼に乗って

山に憩い　丘に休み　風薫る祖国へと

黄金の翼に乗って

「……ねえ、供麒」

しばらく迷った挙句、手元で弄くり回していた茶器から顔を上げ、珠晶は思い切ったように口を開いた。

「ひとつ聞いてもいいかしら」

蓬山に広がる蓬櫨宮の一角、海桐宮の花苑。

雲ひとつなく晴れ渡った空の下には、その名のとおり、辺りを埋め尽くすように海桐花の白い花が咲き乱れている。

石卓を挟んで向かいに座る黒髪の少女を見つめて、供麒と呼ばれた麒麟は嬉しそうに微笑んだ。

「はい。……何でしょう？」

◆ ◆ ◆

珠晶が蓬山に迎えられてから、数日が経つ。

天勅を受けるための吉日を待つ間、暇と好奇心にまかせてあちこちを覗いて回る珠晶の後を、この大きな麒麟は片時も離れずについて回り、尋ねもしないことをあれこれと教えてくれる。

いささか呆れて振り向くと、彼はいつでもこぼれんばかりの笑みを湛えて、幼い主の前に膝をつくのだ。――その顔を見るたびに毒気を抜かれて、文句を言う気も失せる珠晶だったのだが。

今も彼は珠晶の傍に控え、女仙の申し出も断って、自ら主の給仕を務めている。

珠晶はため息をつき、困ったように茶器を石案に戻した。

「あたし、聞いたのよ。そのう……王を見つけられない麒麟の寿命は、せいぜい三十年かそこらだって。――それ、ほんとなの？」

「はい。そう言われておりますね」

供麒はにっこり笑って答える。珠晶は呆れたようにその顔を眺めた。

「おりますねって……あんたは確か、二十六、七って聞いたけど」

「はい。数えでもうすぐ、二十と八に相成ります」

あっさり返ってきた言葉に、珠晶は思わず語気を荒げる。

「ってことは、寿命が近かったってことなんじゃないの？　違う？」

「はあ……」

「はあ、じゃないわよ。よく考えなさい！」

珠晶は小さな手で石案を叩き、人の良い笑顔を睨みつけた。

「つまり、あたしがあと何年かぐずぐずしていたら、あんたは死んじゃってたってことなのよ。寿命も近いっていうのに、いったい全体あんたは何をのんびりしてたの。王気を探して恭の隅々を探し回るくらいのことを、どうしてしなかったのよ。死ぬかも知れないと分かってたら、もう少し必死になってもよさそうなもんじゃないの！」

供麒は戸惑ったように首を傾げたが、再び笑顔を浮かべて、空になった珠晶の茶器に湯を足す。

かっとなった珠晶が後先も考えず、それを払いのけようとしたときだった。

「――王気は、どんなに離れたところにいてもわかります」

丁寧に茶器の蓋を閉じると、供麒は穏やかに口を開いた。

「雁国の台輔などは、遠く蓬莱まで、現在の延王をお迎えに上がったと聞き及んでおります。ですが主上にお逢いしたあの日まで、わたしは世界のどこにも王気を感じることができませんでした。……どこにもないと分かっているものを、どこかへ探しに行く訳にも参りません」

――わたしにとって、世界は長い間、空白も同然でした。

その朴訥な口調にひどく胸を突かれ、珠晶は思わず唇を噛んだ。

しばらく黙り込んだ後、刺繍を施した襦裙の裾を弄びながら、小さな声で訊いてみる。

「……怖くは、なかったの？ つまり……死んだりすることが」

供麒は首を傾げ、ほんの少し笑った。

「いえ、それは少しも。――ただ、心の底から辛く悲しいと思ったことは何度もございます。およそ麒麟と生まれて、王にお逢いできないほど酷いことはありません。もしやわたしに、麒麟として至らぬところがあるのかと悩みもいたしました。不甲斐ないとお怒りでしょうが、わたしにできたのは、王気を得る日をひたすら待つことだけだったのです」

珠晶は言葉もなく俯く。

二十八年と云えば、自分が生まれてこの歳になるまでの過程を、二度繰り返してもお釣りがくる勘定だ。――考えただけでため息がでる。

そんなにも長い歳月を、この麒麟はたったひとりで待っていたのだ。

広い黄海に囲まれた、孤島のようなこの山の頂上で。

黙り込んでしまった珠晶を前に、供麒は少しばかりうろたえたようだったが、やがてふわりと明るい表情になった。

主上、と呼びかけて、自分の髪を指し示す。

「この髪の色を、主上は何とご覧になられますか」

顔を上げた珠晶はしばらくそれを凝視し、そうねえ、と首を傾げる。

「赤銅色っていうのかしら。楓の糖蜜みたいな色だわ。麒麟はみんな眩いばかりの金髪だって聞いてたから、初めはちょっと驚いたけど」

供麒はにっこりと笑い、意を得たように頷いた。

「こういう髪をした麒麟は、赤麒麟とまではいかないものの、丈夫で苦労知らずが多いと言われているそうです。玉葉さまもそのように仰っておいででした」

だから何、と首を傾げた珠晶に、供麒は屈託なく続ける。

「ですから主上は、商家風に申し上げるなら、儲けものをなさいましたのです。誓約を済ませる前の麒麟の寿命がいかほどなのか、一概には申せませんし、事実わたしはこの通り、主上にお逢いすることが叶いました。このような麒麟であってみれば、主上が多少手荒く扱われたところで、壊れる心配もございませんから」

一瞬唖然とした珠晶は、今度こそ赤くなって目を逸らした。

神聖な誓約の場で、あろうことか麒麟を引っ叩いた王など初めて見たと、何度女仙たちから嘆息されたことだろう。

蓬山暮らしが長かった麒麟に寄せる彼女たちの愛情は、それはもう驚くほど深い。あのとき、待ちに待った蓬山公の晴れ舞台とばかりに付き従ってきた女仙の数を見れば、一目瞭然だ。

「そのう……叩いたのは悪かったと思ってるわ。ほんとに」

口ごもる珠晶を見つめ、供麒は大真面目な顔で首を横に振った。

「とんでもございません。お詫び申し上げるのはわたしの方です。せめて令乾門までお迎えに上がっていれば、主上にあのようなご苦労をおかけすることもございませんでしたのに」

珠晶はまじまじと麒麟を見つめた。――これは婉曲な当てこすりなのだろうか。

だが、どうやら彼は心底そう思っているらしかった。長年待たされたことに苦情を言うでもなく、叩かれても嫌な顔ひとつ見せず、かえって主に苦労をかけたと詫びている。

「供麒、あんたって……」

言いかけて、珠晶は思わず吹き出した。――あんたって、駮そっくり。

柔和な光を湛えた優しい瞳。大きくてふかふかした感じも、従順で人懐こい物腰も、頑丘の相棒だったあの騎獣そっくりだ。一緒にいるとどこか懐かしい感じがするのは、きっとそのせいなのだろう。

丈夫で苦労知らずというのは案外本当なのかも、と思いながら、珠晶は堪え切れずに肩を震わせる。連檣を後にして以来、こんな風に笑うのは初めてだという気がした。

あの駮は、心ならずも一度は置き去りにしなくてはならなかったけれど、この麒麟は決してそんな目に遭わせたりしない。

――だってあたしが主人になったんだもの。

「黄海へ行くわよ」

大きく弾みをつけて石椅から立ち上がると、供麒が驚いたように目を瞬いた。

「あたし、黄海が好きよ。何度も死ぬような目に遭ったけど、そりゃあいろんなことを教わったもの。若いときの苦労は買ってでもしろって、ある意味ほんとのことなのね。――だからあんたは迎えに来なくてよかったのよ」

ここでもうちょっと大人しくしてたら、あたしの方から堂々と名乗りを上げに来てあげたのに、と珠晶は笑った。

供麒は眩しげに目を細めると、弾むような足取りで歩き出した主の後を追う。

◆ ◆ ◆

――たった十二歳の子供が、天勅を受けて王になった。

それを両手を広げて迎え入れてくれるほど、王宮が甘い場所ではないことくらい、珠晶にも容易に想像がつく。

これまで何度となく子供扱いされたときも、外見が中身と釣り合うくらい大人になったら、思い知らせてやるから見てなさい、と固く心に誓っていた。けれど、この歳で本当に王になり、その手も永遠に使えなくなったと知ったとき、珠晶は少しだけ怯んだのだった。

だが、何もかも承知の上でここまでやってきたのだ。今さら後戻りはできない。

この先に待つものを考えると、昇山なんて凪いだ船旅みたいなものだったと思う。ましてやこれから続く長い道のりには、朱氏も剛氏もいない。誰の道案内も当てにできないのだ。

珠晶を蓬山に送り届けた後、利広はすぐにどこかへ発って行ってしまった。

そろそろうちに帰らないと勘当されてしまうからね、と笑っていたけれど、彼に対する女仙たちの丁重な態度を見れば、彼が自分で言うような気楽な風来坊でないことくらい、すぐに分かった。

そうである以上、利広にはいずれまたどこかで会うような気が、珠晶はしている。

頑丘も同じく、令乾門まで送るという申し出をすげなく断って、再び黄海へと戻っていった。

再会するのが本当に難しいのは、頑丘の方だと思う。自分が霜楓宮に入ったら必ず逢いに来てほしいと固く言い含めたけれど、気が向いたらな、と素っ気ない返事が返ってきただけだった。

彼はおそらく訪ねては来ないだろう。もし来たとしても、官職を用意するから王宮に留って欲しいと頼んだところで、絶対に首を縦には振らないだろう。――自分の知っている頑丘は、そういう人間だ。

だから、と珠晶は思う。

逢いたくなったら、自分が黄海に来ればいいだけのことだ。

令乾門をくぐり、この豊かで荒々しい、水のない海へ。

◆ ◆ ◆

海桐花の花が風に舞っている。

いい匂いのする空気を胸いっぱいに吸い込むと、珠晶は手をかざして供麒を見上げた。

「今から行けば、金剛山の向こうに沈む夕陽が見られるわよ。――使令を一頭貸して貰える？ できれば妖鳥がいいんだけど」

蓬山での生活が長かった分、この麒麟が従える妖魔の数は多い。

もちろんです、と供麒は笑って頷いた。

「ですが、わたしが転変してお連れした方が早いような気も」

「あら、それじゃつまらないわよ。あたしは鳥形の妖魔に乗ってみたいんだもの」

そう答えた後で珠晶は首を傾げ、でも、麒麟に乗るのも悪くないわね……とひとり頷く。主の髪から白い花びらをそっと摘み上げると、そうですとも、と供麒は嬉しげに相槌を打った。

広々とした蒼穹の下、この世で最も脚が早い獣の背に乗って駆けたら、どんなに気持ちがいいだろう。

「……あたしが天帝なら、麒麟には大きな金色の翼をつけるわね」

そんなことを言いながら空を仰ぐ少女は、黄海を渡る長い旅の途中、彼女自身が幸運の象徴――鵬雛の翼に喩えられていたことを、いまだ知らずにいる。

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タイトル及び冒頭の引用は、ヴェルディの歌曲から。