冬の光
【前】
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「――あら景麒！」 院廊の向こうから、踊るような足取りで近づいてきたのは氾麟だった。 刺繍を施した薄い桃色の襦裙に濃紅の帯を結び、透けるような金髪がかろやかな動きに合わせて揺れるさまは、まるで可憐な蝶のようだった。 「政務はお済みのようね？」 自分よりかなり高いところにある景麒の顔を見上げて、氾麟はにっこりと笑う。 「はあ……」 当惑を隠せずに、景麒は頷いた。 ここは仁重殿の最奥に続く院廊、この先には景麒の起居するいくつかの堂室しかない。その方角から氾麟がやってくるとは、いったいどうしたことだろう。 「主上とわたしは、明日範へ帰ります。ほんとうに慶の皆さまには、ひとかたならぬお世話になりまして」 ぺこりと頭を下げられて、景麒も慌てて礼を返す。 「こうして各国の麒麟が一同に会するのも奇遇なこと、帰国の前に是非皆さまと親睦を深めてくるようにと、主上が仰って」 この場合の主上とは、氾王君のことだろうと景麒は考える。もう大分慣れたとはいえ、あの風変わりで華やかな装いを目にするたびに、今でも少々の困惑を禁じ得ない。 「――で、ささやかながら一席設けさせていただきました。奥の園林の中にある路亭を使わせて頂いたけれど、構わなかったかしら」 「……は？」 「あら、だって淹久閣は泰麒に譲ってしまったし、掌客殿を使うとなると、また陽子や他の方々を煩わせてしまうでしょ。あくまで内輪に、ということなので、景麒のお住まいを使わせて頂くのがいちばんだと思って」 景麒はため息をついて、手元の文箱に目を落とす。どうやら異議を唱えても無駄のようだった。 氾麟はその衣の裾を握って、愛らしく手招きする。 「皆さますでにお揃いです。景麒も早くいらっしゃいな」
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色づいた樹々に囲まれた広い路亭は美しく掃き清められ、隅に置かれた壷には、秋の草花が活けてあった。手摺に腰かけた延麒が振り向き、その近くに座っていた廉麟が、景麒と氾麟をみとめてにっこりと会釈する。 厚織の錦を敷いた石案には、至極上等の茶菓や点心が用意されていた。賓客の場合を除き、この王宮でこれほどのものが供されることはほとんどない。新しい景王が万事に簡素を好み、不要な奢侈を戒めているからだ。戸惑いながら腰を下ろした景麒に、これは氾王からの心尽くしなのだと、隣に座った廉麟が教えてくれた。 「尭天でいちばんの舎館から取り寄せたの。慶の国庫に負担をかけないようにと主上が仰って。同じものを、泰麒たちのところにも届けておいたから、ご心配なく」 蜜漬けの杏を齧りながら、氾麟が言う。お心遣いいたみいります、と景麒は丁重に頭を下げた。 「廉台輔も、明日お帰りになるんですって。ね？」 「もうひと夏も、主上にお逢いしていないものですから」 端正な顔をほんのりと赤らめて、廉麟が呟く。 「主上もさぞ、わたしの帰りを待っていらっしゃると思います」 彼女が金波宮に滞在している間、漣から三日と上げずに鸞が来ていたことを景麒は知っている。それは雨潦宮にいる鸞をすべて使っているのではないかと思われるほどの勢いで、廉麟はいつも銀粒の入った綾織の袋を帯に下げて歩いていた。 「へえ。尚隆なんて自分がほっつき歩くのに夢中で、俺が蓬莱に遊びに行って留守してても全然気がつかないぞ」 呆れたように延麒が言うと、横からすかさず氾麟が口をはさむ。 「あんなに素晴らしい字をくれるほど、情の深い主上だものね」 通称六太と呼ばれる延麒に主が下した字は、およそ口にするのが憚られるようなもので、事実その字で彼を呼ぶ者はひとりもいない。主に対する延麒の態度もまた、景麒などから見ればぞんざい極まりなく、これでどうやって五百年もの治世を敷いたものかと、ひそかに首を傾げたくなることもある。 「月が綺麗だ、花が咲いたと言って、ころころ字を変えられるよりはましだな」 延麒がまぜ返すのを気にした風もなく、氾麟はうっとりと胸の前で両手を組み合わせた。 「主上は四季折々に詩を詠まれるの。その中からいちばん美しい一節を取り出して、わたしに字を下さるんだわ」 心中深くため息をつきながら、景麒は黙って茶器を口に運んだ。泰麒の捜索に疲れはてて泣きじゃくる彼女を、氾王が抱き上げて、いつまでもその背中を撫でていたのを景麒は覚えている。それはそれで美しく、まるで一幅の絵のような光景だったが、目のやり場に困ったのも事実だった。 ――麒麟とは、こういう生き物なのだろうか。三者三様の彼らを見渡して、景麒は途方に暮れる。自分と同族だと考えるのが、何やら難しく思えるときがないでもなかった。 「そうそう。うちの主上におかれては、景王をたいそうお気に召した様子でした」 氾麟の声に、景麒は慌てて顔を上げる。 「三百年生きて初めてお目にかかる、凛々しく美しい武の女王だと仰って。範に戻ったらさっそく冬官に命じて、瞳の色に合わせた翡翠の剣帯を造らせるそうよ。簪釵だの連珠だのをお贈りしても、どうせお使いにならないだろうからって」 それもそうだろうと、景麒は苦笑する。折々の祭祀の際も、女官が強く勧める華やかな衣装を渋々身につける主は、普段は髪を結い上げることさえしない。――が、自分の主があの氾王のお気に召したと聞かされると、なにやら胸の奥がざわざわするのはどうしたことだろう。 延麒がにやにや笑って相槌を打つ。 「それは尚隆も同じだな。慶から使いが来ると何を置いてもすっ飛んできて、結局陽子の思いどおりに使われて、ぶつぶつ言いながら喜んでるんだ。――知ってるか、景麒。玄英宮で陽子が使ってた、あの露台のある部屋な、今では景王専用ってことになってる。他の客には使わせるなと、うちのばか殿の御命令でな」 今度は景麒もはっきりと顔をしかめた。 偽王の乱平定にあたって、雁の王宮に仮住まいをしていた間、延王は軍議と称してたびたび陽子の元を訪れた。それも結構な夜分に。その気安さに内心眉をひそめたことも多かったが、何分非常時のことと、自分を納得させていたのだ。あの露台の部屋が、延王の臥室から園林と照壁を隔てただけの異例の近さにあったと気づいたのは、うかつにも蓬山に向けて出立する前日のことだった。 まあ、と口元に手をあてたのは廉麟だった。 「そういう……ことでしたのね。同じ胎果の誼、気のおけないご関係とは推察致しておりましたけれど。あら、どうしましょう」 主上にどうご報告したら……と再び頬を染める廉麟を見やって、そんな報告はせずともよろしいと景麒が断じようとしたときだった。 「そういう場合、王同士でも野合ってことになるのかしら」 景麒はぎょっとして振り返る。氾麟が愛らしく小首を傾げて、何やら思案していた。 「まあ、問題はないかも……。天綱には、王の伴侶が王であってはならないという条項はないようだし」 「覿面の罪でもない限り、尚隆は思ったことを思ったようにやる奴だからな」 延麒が重々しく頷く。 「泰麒探索のために諸国を動かすという、前代未聞のことをやってのけたくらいの度胸だ。陽子も気にしないだろう」 景麒の顔が見る間に青冷めた。――そんなばかなことが。 打ち消そうとしても、浮かんでくるのは親しげに主の名を呼ぶ延王の姿。主も一応うら若い女性であってみれば、ああいう見かけだけは頼もしく男ぶりのいい大国の王に、心惹かれることがないともいえないのではないか。 「そうすると、両国を挙げての慶事ということになりますわね。それとも慶の国情がもう少し落ち着いてからということに……？」 「逆に、今の時期に民に慶事を知らしめることで、復興を促すという手もあるな」 「うちの主上はきっと悔しがられるでしょうねえ」 蒼白な面持ちの景麒をよそに、三人は頭を寄せ合って何やら不穏な相談をしている。 ――断じてお諌めしなくてはならない。 すでにことは傾国の大事だ。すっくと立ち上がった景麒を、三人の麒麟たちが呆気に取られたように見上げた。 「――所用を思い出しましたゆえ、ここで失礼を」 きっぱりと言い放つなり、身を翻して園林の向こうへ歩み去っていく景麒の、みるみる遠くなる後ろ姿を見送って氾麟が呟いた。 「……ちょっとやりすぎちゃったかしらねえ」
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