暗戀桃花源
【前】
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その日、朝議を終えて内殿へ向かおうとする陽子たちを呼び止めて、官の一人が回廊の半ばで膝を折った。 今朝、麓の雉門に、王に面会を求める者があったという。かねてからお申し付けのあったように、掌客殿にお通し致してあります、と奏上した後、官は迷うように言い添えた。――本当に、主上が仰った通りのご様子の方でしたので。 陽子は笑いを噛み殺して頷いた。 「じゃあ、すぐにわかったんだね。――わたしはこのまま掌客殿に行くから、これを内殿に届けてくれるよう、誰かに頼んでおいてくれ」 そう言って、陽子は手に持っていた書類を官に手渡す。朝議でも官服で通すようになって久しいから、服を改める必要もない。 「――景麒も来るだろう？」 陽子が傍らを見上げると、背の高い金髪の台輔は、当然だと言いたげに頷いた。
◆ ◆ ◆
堂室に入っていくと、窓の傍に座っていた客人が、こちらを見とめて立ち上がる。 満面の笑みに髭をそよがせて片手を上げたのは、綺麗な灰茶色の毛並みをしたネズミだった。
「そうか……。楽俊はやっぱり巧に帰るんだね」 なんとなく予想はしていたんだけどね、と陽子は困ったように笑った。 掌客殿の一角、雲海に面した花庁。 玻璃窓を隔てて大きく露台が張り出し、それを囲むように枝をさし交わす木々の向こうには、凪いだ海が広がっていた。 「延王や延台輔からも、随分引き止められただろうに。楽俊が卒業したとき、国府に有能な官吏がもうひとり加わったって、それは喜んでいらしたから」 ――楽俊は四年かけてすべての允許を取り、大学を卒業した。大方の允許は最初の二年で取り終えたのに、その後更に二年も足踏みをしたのは、半獣の楽俊を嫌って最後まで允許を出すことを渋った教師がいたのと、同じく最後まで苦手だった弓射が足を引っ張ったせいだ。 そうして無事に大学を終えた後、楽俊は雁の国府に籍を得、秋官府の下士として、存分にその法学の知識を揮った。楽俊の大らかで勤勉な官吏ぶりは、時折金波宮に顔を出す延麒から聞いて、陽子たちも知っていた。そのまま雁に留まるつもりなのだと誰もが思っていた五年目に、楽俊は辞職を願い出たのだった。 「そりゃあ、雁では本当によくしてもらった。大学卒業まで面倒をみてくれたばかりか、官吏にまで取り立ててくれた。一生雁には足を向けて寝られねえくらいだ」 楽俊は言い、その尻尾が迷うように揺れた。 「……でもなあ。放っとけば楽な方へ流されちまうのが人間の本性だ。雁にいれば確かに楽だろう。けど、荒れた巧国のことを考えると、こんなところでおいらばかりが恵まれていてどうするって思っちまう。巧にいた半獣はおいらだけじゃねえ。そいつらも普通の民も、いまだに荒廃から抜け出せずに苦しんでる。それを思うと、より切羽詰ってる方に行って力を尽くすのが、本当なんじゃねえかって気がしてな」 それにおいらのひとりやふたりいなくても、雁は痛くも痒くもないしなあ、と楽俊は屈託なく笑った。 「雁でお世話になった分は、雁で働いて返そうと思ってた。その機会も与えられて、おいらは本当に恵まれてる。まだまだその恩を返しきれたとは思ってねえけど、続きは巧で一所懸命働くことで返せたらって思ってるんだ。――それに、ここで行かなくちゃあ、陽子に王になれって偉そうに説教した、おいらの面目が立たねえしなあ」 「そんなことないのに」 身を縮める楽俊を見て笑いながら、陽子はふと涙ぐみたいような気持ちになる。――蓬莱から流されて、もはや死ぬばかりだった自分を助けてくれた楽俊。逡巡する自分を励まして、陽子がどんな国をつくるのか見たいと言ってくれた大切な友人。自分で道を切り開くことを教えてくれたこの友人は、今再び荒れ果てた故国へ戻っていこうとしているのだ。 今、蓬山には塙麒があり、巧国にはすでに麒麟旗が揚がっている。けれど、そうして選ばれた王が、苛酷な半獣差別の法を撤廃するかどうかは誰にもわからない。せっかく雁で得た知識や経験を、巧で役立てることができるという保証はどこにもない。――それでも楽俊は行くと言う。 「……心配はしないよ。楽俊なら大丈夫だって、わたしはよく知っているから」 滲んだ涙をごまかしながら、陽子は明るく言う。 「ほんとはいつ慶に引き抜こうかと、虎視眈々と狙ってたんだけど」 「莫迦言うなって」 「ほんとだよ。――ね、景麒」 振り返った陽子の視線を受けて、金髪の青年はかすかに笑って頷いた。彼は陽子の脇に控えて、友人と楽しげに話している主を、一言も挟まず静かに見守っていたのだった。 「祥瓊だって楽しみにしてたのに」 その名前を聞いて、楽俊は破顔する。 「あいつも元気にやってるか？ 長いこと逢ってねえなあ」 「とても元気だよ。今は秋官府で府史として働いてる。――ああ、これは内緒だったかな」 「秋官府？ そりゃまたなんで」 びっくりしたような楽俊の声に、陽子はくつくつと笑う。 「昔、自分を助けてくれたのが、各国の法制度にとても明るい人で、無知だった自分にさまざまなことを教えてくれたからなんだって」 「……へ？」 「民を虐げず、国が伸びていくのを助けるような、良い法をつくる手伝いがしたいって。自分から異動を願い出たんだ。わたしとしては有能な女史がいなくなって、大変困っているんだけどね」 照れたようにそよいだ楽俊の髯を指先で弾いて、陽子は再び視界が滲むのを堪えきれなくなる。 こうして自分たちは皆、それぞれの道を切り開いて先へ進んでいく。けれど、どれほど遠く離れていくように見えても、歩くことを止めなければ、いつかきっとその道が再び交わるときが来るだろう。力を尽くして歩き続ければ、きっと。 「――主上」 軽く腕に触れた景麒の手に気づいて、陽子は慌てて目元を拭う。 「祥瓊を呼んで来るよ。楽俊に逢えるのを、そりゃあ楽しみにしてたんだ。わたしばかりが独り占めしていたら、きっと後でものすごく怒られる」 「お、おい。だってまだ仕事中じゃあ……」 椅子から立ち上がった陽子を、楽俊は慌てて止める。陽子は肩を竦めた。 「王が政務をさぼっていて、台輔もここにいる。官だけが働かなくちゃいけないってことはないだろう？」 そう言った陽子の手が景麒の肩に触れたのを、楽俊は見た。 ――主を見上げた景麒の表情は、窓から射し込む雲海の反射を背にして、楽俊のいるところからは見えない。けれどそれを見下ろす翡翠色の瞳には、楽俊の知らない何かがあった。 風の中にふっと花の香りが漂うのにも似た、何かが。 「すぐ祥瓊を呼んで来るから、それまで景麒と話でもして待ってて」 そんな言葉を残して、陽子の姿は衝立の陰にひらりと消えた。 ――それは楽俊にとって、最も難しいことだったのだが。
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