朝議を終えて院廊に出ると、足元の空気が急に冷え込むのが分かった。

平たい低さで立ち込める冬の空を見上げて、今日は一段と寒いね、と立ち止まった陽子が呟いた。相変わらず簡素に纏めただけの赤い髪の脇を、その声が白い吐息となって流れていく。

「そろそろ尭天でも、初雪が見られる頃でしょう」

景麒がそう答えると、初雪、と呟いた主の顔はかすかに翳ったようだった。

訝しげな彼の視線に気づくと、陽子はちらりと笑って見せる。

「いや、寒いのは苦手だなと思って」

今日はこれから天官府で冬至の祭礼の打ち合わせがあるから、と軽く手を上げて歩み去っていく主の後ろ姿を引き止める理由もなく、その午後、景麒もまた瑛州府へとその場を後にしたのだった。

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景麒の言った通り、初雪はその日の午後遅く、凌雲山の上にも訪れた。

一日の政務を終えて正寝に戻ると、女官たちがいつもより多めに火炉の用意をしているところだった。拓峰の乱以後、王宮警護と人員縮小のため、極端に削減した女官たちの数も、あれから数年を経て、少しずつ増えてきている。

すぐに戻るからと言い残して、陽子は回廊から庭院に出た。

冬の夕暮れは早い。

辺りは薄墨色の宵闇に包まれ始めているのに、低い空は不思議な白さを湛えていた。その彼方から綿屑のような雪が、間隔を置いて降ってくる。

寒さが本格的に厳しくなるのは、いつも年を越してからのことだったから、こうしていてもまだ凍えるほどではない。

長楽殿の庭院を抜けると、大分暗くなった石畳の路を、陽子は静かに歩き始める。

木立ちの合い間や照壁に沿って当てもなく歩き続ける内に、気がつくと随分西の方まで来てしまっていた。

周囲の建物がすでに輪郭しか判別がつかないほど、辺りは暗い。

ゆっくりとまばらに降ってくる雪を見上げながら、少し濡れた肩や袖を払って、陽子は回廊の下に潜り込む。

確かこの先には、瑛州府の置かれている広徳殿があるはずだった。多分、景麒はもう政務を終えて仁重殿に引き取った後だろう。

円柱の下に座り込んで、初雪を迎えた庭院を眺める。人影も灯りもない静寂が心地良かった。

そうやってぼんやりと暗がりを見つめていると、頭上の回廊が遠くで軋む気配がした。――瑛州府の官だろうか。

女官にしてはゆっくりとしたその足音が近づいてくるのを、陽子は息を殺してやり過ごそうとする。

やがて角を曲がったその足音は、はたして陽子の頭上でぴたりと止まった。

「……あなたですか。主上」

景麒の声だった。その響きに疑問形はない。

陽子は少し身を乗り出して、欄干の方を見上げる。灯りのない回廊では、陽子の目に彼の姿は見えない。

「――見えるの？」

暗がりに目を慣らそうとするような沈黙の後、やがて答えが返ってきた。

「ええ。見えます」

脇の階段が軋むかすかな音ともに、景麒が庭院に降りてくる。

おまえの云った通りだった、と薄く舞う雪に向かって陽子が手を振ると、彼は持っていた文箱を回廊に置いて夜を見上げた。

「初雪に気を取られて、こんなところまでおいでになったと」

ため息混じりの声に、陽子は笑う。――そう、その通り。

「ちょうどよかった。――今度の休日、斑渠を貸してもらってもいいだろうか」

円柱に凭れたまま陽子が言うと、階段の脇に立った景麒は訝しむように答えた。

「理由をお聞きしてよろしいなら」

「桂桂を連れて、固継の里家を訪ねたいんだ」

「――何故です」

「彼が大きくなったら、いつか一緒にあの場所に戻って、わたしがどうして里家に身を寄せていたのか、蘭玉がどうして死んだのか、自分の言葉できちんと説明しなくてはならないと思っていた」

「……主上」

景麒の声に込められた抗議の響きに、陽子は真っ直ぐに顔を上げる。

「それを知る権利が桂桂にはあるし、わたしには説明する義務がある」

頭のいい子だから、事情を理解しているのだろうとは思う。

けれど年齢の許容量を越える試練は、子供の心の一部分を取り返しのつかない速さで大人にしてしまう。明るく屈託のない桂桂でさえ、時折そうした類の翳りを垣間見せることがあった。

それを目にするたびに、この国を長く覆っていた荒廃の時代、そして桂桂と同じような境遇にあったはずの無数の子供たちの存在を思わずにはいられない。

「あの子は知らないんだよ、景麒。――弟を逃がした後、蘭玉はわたしの部屋に戻って、そこで命を落とした。大切なものは他に幾らでもあっただろうに、御璽だけを握って、賊から隠すように懐に抱いていてくれた。間に合うように戻れなかったのはわたしの責任で、桂桂がわたしを恨んでも不思議はない。……あの子をここに引き取ったのは、ある意味わたしの自己満足だから」

否定しようとする景麒の声を、陽子は手を上げて遮った。暗闇の中でも、それは彼にも伝わったはずだった。

「改めて、これからどうしたいかを桂桂に訊ねたいんだ」

小さく息を吐いて、陽子は続ける。――こんな風に自分で将来を決めさせようだなんて、随分酷だとおまえは言うだろうね。

「けれど桂桂も、夕揮が少学に進んだ時の年齢を越えてしまった。官吏になるにしても、他の道を選ぶにしても、今のまま王宮にいては、どれも中途半端に終わってしまう。……弟をあんなに可愛がっていた蘭玉だって、きっとそれを望まないはずだ」

景麒の返事はなかった。

小さな雪の欠片だけが、静かに夜の底へと姿を消していく。

それに目をやったまま、陽子は呟いた。――わたしたちは憐れみのかけ方を間違ってはいけないんだよ、景麒。