ややあって、階段の上からかすかなため息が聞こえた。――分かりました。

「では、班渠をお連れ下さい。そうなさることで、主上のお心が少しでも軽くなるのなら。その方が政務の能率も上がりましょう」

あくまで事務的なその口調を耳にして、陽子は小さく笑う。

「……おまえは人を、機械のように言うんだね」

空白が、夜の闇に落ちる。

決して嫌味で言ったつもりではなかった言葉が、この不器用な麒麟を傷つけたのではないかと、陽子が口を開こうとしたときだった。

「わたしは、気が利きません」

降って来る雪のように静かな声だった。

「それを悔やむことがあるにしろ、言い訳するつもりもありません。ただ、主上が冷たく無表情だと仰るその下で、わたしがさまざまなことを感じているのだと――それだけは、信じて頂けませんか」

一度言葉を切った後、表情の見えない夜の中で、景麒は続けた。

「あなたが幸福でないようにと望んだことは、一度もありません」

陽子は思わず目を閉じる。――ああ、やっぱり間違いない……。

最初に回廊の上から声をかけたときも、そして今この瞬間も。

彼は、あなた、と陽子を呼んだのだ。

初めて与えられた飾り気のない二人称の響きを、陽子は胸の奥にひっそりとしまい込む。

多分彼は、気づいていない。

だから自分も気づかないふりをしようと思う。――それは心のどこかに、非常な抑制を必要とする行為だったけれど。

「……うん。覚えておくことにする」

◆                         ◆                         ◆

あの冬、と呟く主の小さな声を、景麒は聞いた。――拓峰の乱が終わった後のことだけど。

「尭天へ帰ってくるとき、班渠の背中から小さな村々の灯りが見えた。本当に小さな、よくよく目を凝らさないと見えないような灯りが、尭天に近づくにつれて少しずつ増えていくんだ」

雁の関弓で見た、あの華やかな夜景には到底及ばないけれど、と陽子は軽く息を吐く。

「……それでも、嬉しかったんだ。あの下で少しでも、暖かく暮らせる人々がいるんだと思えて」

冬になると、いつもあの眺めを思い出す。

そう呟く声を聞きながら、かつて見た風景を景麒も思い起こす。

――彼もまた、異界の空から街の灯を見下ろしたことがある。

二度目の主を迎えに行った蓬莱は、二月半ば、まだ冬のさなかにあった。

使令と女怪に託した主を見送って、一度だけ視線を向けた下界には、数え切れないほどの灯りが、街の輪郭に沿って星のように散らばっていた。

色も形も殺風景な建物の羅列、それを空虚に彩る異邦の灯りを、彼は今でも覚えている。

景麒の目に決して美しくは見えなかったあの風景は、紛れもなく彼女の故郷だったのだ。

故郷を懐かしく思い、家族を恋しく思う気持ちは、彼の実感の範疇にはない。

けれど亡くなった母親を憶って泣いていた先王の姿や、涙をこぼしながら帰りたいと自分の膝に縋った幼い麒麟を思うとき、同じものがこの主の心にあっても不思議ではないと――それだけは分かるのだ。

蓬莱に帰りたいか、と数年前に一度だけ、この赤い髪の主に訊ねたことがあった。あれ以来、同じ問いを口にしたことはない。

今、別の言い方で訊ねれば、あるいは違った答えが返って来るかも知れない。

それに対して平静に応じられる確信が年々失われつつあることに、すでに景麒も気づいてはいたのだった。

「……そろそろ戻りませんと」

正寝の方でも心配しておりましょう、と声をかけると、陽子は素直に頷いて立ち上がった。

仁重殿とは反対の正寝の方向へ付き従って行こうとする彼を、主は一度だけ振り返ったが、何も言わずにそれを受け入れたようだった。

内包する雪のせいか、夜空のどこかが仄かに白い。どんな暗闇にあっても、彼女の姿だけは見失うことがなかった。

「今年の冬も、あまり寒くないといい」

わずかに先を歩いていた陽子が、ぽつりと呟く。――まだ充分に暖が取れない人々も、多くいるだろうから。

その髪に、溶けた雪が水滴となって残っていた。

それを払おうとのばしかけた手を、景麒はそっと文箱の上に戻す。

――この方は今朝、それを案じておいでだったのか……。

この冬初めての雪だというのに、降ってくる白い欠片は次第に勢いを増しつつあるようだった。

積もるのには季節が少し早いのだろう。まだ冷え切ってはいない地面に触れた傍から、雪は跡も残さず溶け去っていく。

「ご案じにならずとも、慶ではそれほど雪が深くなることはありません。戴などに比べれば、冬も随分と過ごし易い」

何度か胸の中で推敲した後で、それを言葉にすると、振り返った緑の瞳が真っ直ぐに景麒を見上げた。

「もしそうなら、とても嬉しい」

どんな深い夜の中にあっても見誤ることのない、やがて訪れる春を思わせるような美しい新緑の色だった。

嘘ではないと言う代わりに、景麒はその目に向かって無言で頷いて見せる。

今はそれが精一杯だった。

冬至の祭礼まで、あと数日を残す頃だった。

更けていく冬の夜の向こうには、正寝へと続く大門の灯りが遠く見え隠れしている。

タイトルはC.チャップリン監督・主演の映画から。冒頭の引用は、同作品ラストの台詞より。これが非常に印象に残っていたため、作中にも形を変えて引用しました。

ぎこちなさを漂わせる主従の姿を、初雪の季節に重ね合わせて見たい、と望まれる榊さまからのリクエスト。これから冬に向かう季節にぴったりのご注文を頂き、心からお礼を申し上げます。