花庁の堂扉を出ると、深夜の庭院はひっそりと闇の中に沈んでいた。

後に従ってきた景麒が足を止めたので、尚隆も回廊の端を振り返った。

箱提の光も届かない欄干に浅く腰かけるようにして、こちらを見ているのは陽子だった。

あれから帰ることもせず、ここで自分たちの話が終わるのを待っていたのか。

尚隆は苦笑して、そちらに歩み寄る。

立ち上がった陽子はまず景麒に目をやり、それからわずかに安堵したように尚隆を見上げた。

「――悪かったな」

ため息混じりに尚隆は言う。

今度はそれが本心からのものだと分かったのだろう。陽子は少し考え、それからにこりと笑った。

「詫びなら景麒に。わたしには必要ありません」

そうか、と短く息を吐き、尚隆は首の後ろに手をやった。

「台輔に何かあれば、代わりに首を取られても仕方のないところだった。……ここが国同士の戦を倣いとする世界でなくてよかったと思うぞ」

――おまえを前にしたら、俺は随分と怯むだろう。

尚隆は内心苦笑しながら、生真面目な緑色の瞳を見下ろした。理由を聞かないその潔さを、好ましいとも、もどかしいとも思う。

先王の忌禍がいまだ人々の記憶に根深く残るこの国で、これが麒麟を愛し、その麒麟の口から、自分は永遠に彼女のものだと言わせしめた王の顔か。

昼間、振り下ろされた剣を怯まず全身で受け止めたように、半身を真っ向から愛の対象として選び取ることを望んだというその顔は、少女のものに過ぎないのに。

ふと心が動く。忠告してやろうかと。

――おまえもいずれ、終わりのない長い生に飽きるときが来るだろう。それを越えてこの世に存在し続けようと思うなら、時には自分を楽しませる小細工もまた、必要なのだと。

時折、地方から国府へ上がってくるような有能な官吏の中に、斡由を見出すことがあった。――正確に言えば、かつての斡由と同じ欠片を持った人間を。

能力と野心を併せ持ち、正義を尊び、けれどそれが何に立脚した正義なのか考えようとはしない者。時にわざわざ選んでそうした人間を、尚隆は要職に任命することがあった。

うまく行けばこの上なく機能するが、そうでなかったときには深刻な綻びが生じる。けれど、内心どちらに転んでもかまわないと、尚隆はいつも思っているのだった。――そうでなかったときには、自ら手を汚して始末するだけのことだ。

おそらく天も、同じようにして自分を選んだのだろう。

将棋の駒を動かすようなその遊びを、六太などは知っているのだろうと思う。その上で、あの麒麟も黙認しているのだ。

時に永遠の命に飽きることもある王が、実益半分、遊興半分でやることを、多分止めない方が国はうまく進んでいくのだと。

だが、余計な口出しは止めておこうと尚隆は思い直す。

あらゆる意味で若い、この慶の女王がいつか永遠の生に倦んだとき、それをどう克服するか、あるいは屈するかは、どこまでも彼女自身の問題だ。――そして、おそらくはこの麒麟の。

「これから、どちらへ」

すでにまとめた荷物に目をやって、陽子が訊ねる。尚隆は軽く肩をすくめた。

「さあな。将来の大国を見聞したついでに、範にでも足を伸ばしてみるか」

――あそこにもひとり、長い生の倦怠を知り、それを飼い慣らす術を知った王がいる。

「何も世界の反対まで行かなくても、大国なら奏があるでしょうに」

「ところがあそこでは、誰も生に倦んでなどおらぬのだ。まあ……ひとりばかりいるにはいるが、俺と同じく生国に居着くのが苦手な奴でな。どうもかけ違って、あそこで逢ったためしがない」

「生に倦む、ですか……」

何やら考え込む風に、陽子は首を傾げる。

少女の生硬さを頬の辺りに残した、あくまで生真面目なその顔に目をやって、尚隆は苦笑した。

「まあ、そういうことだ」

――飽きたらまた、この国に足を伸ばすまでだ。

しばらくしてから来れば、また面白いものが見られるかも知れない。

胎果の女王と異形の麒麟が治める、この東の涯ての国へ。

尚隆は視線を上げ、いつのまにか主の後ろに寄り添っていた景麒を見やった。

「麒麟相手に珍しい話をして、随分と無聊も慰められたようだ。礼を言う」

無言で会釈した自分の麒麟を振り返って、珍しい話、と訝しげに陽子が呟いた。

主の視線を受け止めて、景麒は完璧な微笑を浮かべる。

「――珍しいことなど、何も」

――――――――――――――――――――――

騎獣はすでに雉門から掌客殿に回させてあった。

帰りは雲海の上を通っていくという尚隆を、陽子たちは露台の見える岬で見送った。不意に訪れた客が予告もなく帰るのに、禁門を通るのは少々不具合だと彼が言ったからだった。

騶虞にかけた手綱をもういちど確かめて、尚隆は少し離れたところに立つ二人を振り返る。

堂門に吊るされた灯りの下で、景麒の長い金髪が光とともに浮かび上がり、逆に暗闇に沈んでいるのは、半身に寄り添われた陽子の方にも見えた。

――だが、それをもう、不吉なこととは思うまい。

しなやかな毛並みの背を叩くと、騶虞は軽く大地を蹴って飛翔し、いったん深く下降する。

自分はこの瞬間を愛しているのだと、尚隆はいつも思う。――雲海の海面が急激に近づき、もう二度と飛翔できないのではないかという思いに、目眩を覚える一瞬。

けれど次の瞬間、騎獣はいつも間違いなく虚空に向かって駆け昇るのだ。それをどこかで残念に思っている自分を嗤いながら、尚隆は手綱を放す。

岬の上空で騎獣が大きく弧を描き、北西を目指して疾走を始めたとき、尚隆はもういちど王宮の方を振り返った。

あの二人の姿はもう見えない。

一面の闇の中、点々とした灯りに彩られた凌雲山が雲海の上に奇怪に横たわり、それ自体が美しい異形のように、尚隆の目には映った。

やがて視線を前方に戻しながら、彼は考える。

――人であればとうに朽ちはてているはずの、気の遠くなるような五百年。

長過ぎる生に、時には飽き、それを弄ぶ自分もまた、確かに異形なのだと。 

 ― 結 ―