三つの前奏曲�T

沈める寺

祥瓊の秋官府への異動が決まったのは、その年の冬だった。

ひと夏かけて用意した異動願いを秋の除目後に提出し、無事春からの勤務が内定した祥瓊に与えられたのは、最下官のひとつである府史だった。――大学を終えた者ならば、最初から数段階上の位が与えられる。

けれど、祥瓊にはそれが嬉しかった。

ここに至るまでの間、陽子や周囲による口添えはひとつも介入していない。これは初めて自分の力だけで得た、正式な役職だ。

報せを聞いたとき、桓魋は意外なほど喜んでくれた。お祝いに何か欲しいものはないかと訊かれ、祥瓊は少し考えた後でこう答えたのだった。

――見晴らしのいいところへつれていってほしいの。できれば、北西の方角がよく見える場所へ。

桓魋が約束を実行してくれたのは、ある寒い二月の夕暮れだった。

◆ 　◆ ◆

その午後、少し早めに内殿を退出してきた祥瓊を、桓魋は雉門で待っていた。

祥瓊が抱えた包みにさりげなく目をやった後、禁軍将軍は思案気に首を傾げる。

「その旗袍では、遠出にはいささか軽装と思うが」

「大丈夫。雪の降るような寒さとは違うもの」

雪が降り出す前の空気には、もっと底冷えのするような硬さがある。祥瓊はそれをよく知っていた。――長く厳しい芳国の冬。最後に過ごした三年間は、とりわけ雪が深かった。

軽く頷くとそれ以上は何も言わず、桓魋は手綱を取って騎獣を引き寄せる。折に触れて乗せてもらうことがあるからだろう。彼の吉量は祥瓊によく懐いていた。

祥瓊が手をのばすと、騎獣は鼻先を預けて柔らかい声を上げ、早く背中に乗れという風に蹄を鳴らして見せた。

「こいつも男だからな」

吉量の首筋を叩きながら、桓魋は真面目くさって呟く。

「……主人と同じく、美人が好きなんだろう」

尭天から北西の方向へ、桓魋は吉量を駆っていく。

眼下に広がっていた市街地は、やがて冬の寒々しい色をした閑地に変わり、さらに半刻ほど行った辺りで騎獣を下降させる。

そこは瑛州の州境を臨む丘陵地だった。遥か北方には建州、そして遠く征州へと連なる山脈の稜線が広がっていた。

桓魋に助けられて吉量から降りると、祥瓊は胸に抱えていた包みを解く。厚い紙にくるまれていたのは、根に土をつけたままの花株だった。

「水仙、だな。それは」

いささか自信無げな桓魋の言葉に、祥瓊は笑って頷く。

「芳では、国を象徴する花だと云われていたの。どんなに厳しい冬でも、雪の中から最初に芽吹いて、綺麗な花を咲かせるから」

この水仙をくれたのは、台輔だった。

桓魋に約束を取り付けてからの数日来、祥瓊は内殿からの帰りに寄り道をして、早咲きの水仙を探していた。

手入れの行き届いた王宮の庭院には、冬でも緑が保たれている。この時期ならきっとどこかに咲いているはずだと思いながら、その日も辺りを歩き回り、気がつくと随分西の方まで来てしまっていた。

暗くなりかけた庭院で、身を屈めるようにして植え込みを覗いていた祥瓊は、頭上の回廊が軽く軋むのに気づいて、はっと顔を上げた。

文箱を抱えた台輔が、夕暮れの欄干からこちらを見下ろしていた。――ここから先は瑛州府、台輔が政務を執る広徳殿だ。

こんな場所まで踏み込んでしまった不躾に恥じ入りながら、祥瓊は深々と頭を下げる。

けれど台輔は、特にそれを咎めるつもりもないようだった。

ここで何を、という無言の問いかけに、祥瓊は困ったように俯いた。

「そろそろ、水仙が咲く頃だと思ったので……」

水仙、と回廊に立ったまま景麒が呟く。

祥瓊は慌てて首を振った。

「大したことじゃないんです。後で誰かに聞いてみることにしますから」

なおも考え込むように視線を落としていた台輔は、冷えぬ内に戻られよ、と短い言葉を残して立ち去っていった。

太師官邸に戻った祥瓊の許に、仁重殿から早咲きの水仙が届けられたのは、その日の夜遅くのことだった。

◆ 　◆ ◆

枯れた草の上に膝を突くと、祥瓊は手近な木切れを拾って地面を掘り始めた。

冷たい土には雑草の根が固く絡まり、何度となく折れる木切れをそのたびに持ち直しながら、祥瓊は穴を掘ることに専念した。

――景麒は、優しいよ。

いつだったか、陽子がそう語ったことがあった。

――言葉にしろ表情にしろ、飾るってことを知らないから、すごくとっつき難く感じる。でもその優しさが、受け取る方からは見えにくい種類のものだって云う、ただそれだけのことなんだ。

あのとき何も問おうとはしなかった台輔が、切花ではなく、根を付けたままの生花を届けてくれたことを、祥瓊は改めて不思議に思う。

優しさと呼ばれる曖昧なものを、いったい人はどんな物差しで計るのだろう。

少し離れた場所で、桓魋は黙ってこちらを見守っていた。手伝うと言われても断るつもりだったが、彼にもそのつもりはないらしかった。

ようやく掘り終えた浅い穴に水仙の根を下ろすと、慎重に土を被せる。手を離しても倒れないことを確かめると、祥瓊は額を拭って息をついた。

寄り添った二株の水仙が、真冬の冷たい風に揺れていた。

【後】

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