三つの前奏曲 �U

西風の見たもの

「……揮。おい、夕揮！」

ひそめた声で何度か呼ばれていたのに気づかなかった。脇に座る学生に肩をつつかれ、夕揮は書物から顔を上げる。

瑛州大学の図書府。

立ち並ぶ高い書架の間から、友人が手招きしていた。

「おまえに面会だよ」

「僕に？」

外部からわざわざ自分を訪ねてくる人物に心当たりはない。兄の虎嘯ならここへは何度も訪ねて来ているから、友人たちも顔を見知っているはずだった。

首を傾げた夕揮に、友人はやや声を大きくして言う。

「桓魋って云えば分かるってさ。客庁で待ってるそうだ」

夕揮は一瞬目を瞠ったが、迷惑そうに顔を上げた他の学生たちに気づくと、読みかけの書物を棚に戻し、急ぎ足で図書府を出た。

三月に入って、それでも日暮れは随分と遅くなったようだった。

淡い夕陽の射す走廊を過ぎ、薄暗い客庁に入って行くと、窓際に立っていた人影がこちらを振り返った。

「久しぶりだな。――元気にしてたか」

精悍な顔を綻ばせて手を上げたのは、禁軍将軍だった。

さすがに皮甲は身につけていなかったが、動き易いように裾を割った旗袍や、剣帯を兼ねた革の紐帯は、見る者が見れば武人だとすぐに分かる。

夕揮は丁寧に拱手の礼を取った。

「――お久しぶりです、青将軍」

「そう改まらないでくれ。桓魋で結構だ」

屈託なく笑う禁軍将軍に、夕揮もやや肩の力を抜く。

「突然のお越しで驚きました。……兄に何か？」

桓魋は肩をすくめる。

「奴は相変わらずだ。今日見た限りでは、殺しても死なない程度に元気だったな」

では、と首を傾げる夕揮に、卓上から剣を取り上げて腰に戻しながら、桓魋は笑顔を向けた。

「夕揮さえよければこれから街に出て、久しぶりに飯でも一緒にどうかと思ってな」

◆ ◆ ◆

すっかり日の落ちた尭天の広途は、立ち並ぶ店先からこぼれた灯りで明るく照らし出され、昼とは違った賑わいに溢れていた。寒さも緩みつつあるせいか、この時刻でも人通りは多い。

慣れた様子で小路に入っていく桓魋に連れて行かれたのは、店構えは小さいものの、繁盛していることが外からでも分かる一軒の飯庁だった。

大学からそう遠くはないのに、夕揮がこの辺りへ足を踏み入れたことはない。いささか面食らってそう告げると、桓魋は笑って答えた。

――俺の生家は商家だったから、店の目利きには勘が働く。

大勢の客で混み合う一角に席を作ってもらうと、すぐに料理と酒が運ばれてきた。

飲むかと勧められて、夕揮は少しだけ受けることにした。――この人がわざわざ自分を訪ねてきたのには、何か理由があるのだろう。だとしたら、少し空気をくつろがせておいた方がいい。

酒盃を受け取りながら、無意識にそう計算している自分に気づき、夕揮は軽い自己嫌悪を覚える。

そんな夕揮の様子に目を留めた風でもなく、桓魋は自分の酒盃に燗酒を注ぎながら口を開いた。

「先日太師邸に立ち寄ったとき、偶然おまえの話が出てな。尭天に用事があったついでに寄ってみようと思いついた。――学業の方は順調か」

ええ、と夕揮は愛想のいい笑顔を作る。

「おかげさまで、つつがなく」

それは何よりだ、と頷いて桓魋は盃を口に運んだ。

「少学を最優等で卒業し、大学入学最初の一年で五つも取った允許を、二年目以来はひとつも獲得していない。なのに勉学を怠けている訳ではなく、時間があれば図書府に籠って書物に没頭している。……これはどうしたことかと、又聞きながら少々気になってな」

完全に虚を突かれて、夕揮は沈黙する。

桓魋はさらりと切り出した。――拓峰にいたときのことを覚えているか。

店内のざわめきが急に遠のいた気がした。

「もう随分前のことになるが、拓峰で郷城に立て籠もっていた――あれは真夜中だったか。街に火が放たれたと報せが入ったとき、城から出て民を逃がせという声にとっさに反対したのは、夕揮、おまえと俺が同時だった」

あれが今でも印象に残っていてな、と桓魋は息を吐く。

「正直言って俺があのとき反対したのは、待ち受けている州師たちの中にむざむざ飛び込んで、無駄に戦力を殺がれたくないという兵法上の計算故だった。――だがおまえの反対の理由は、どうも俺とは違っていたような気がしてな」

◆ ◆ ◆

賑わう店の中で、その一角だけが静かだった。返事を急かすでもなく、桓魋は落ち着いた手つきで酒を口に運んでいる。

「――僕はあのとき、命を惜しんだんです」

深く俯いた夕揮の口から、やがてかすれた声が漏れた。

「死ぬ覚悟ならとうについているつもりだったのに、最後の瞬間に僕は迷った。目の前で焼き殺されるかも知れない街の人々を前に、仲間の命を……いや、違います。僕が惜しんだのは自分の命だった」

だからとっさに城を出ることを躊躇したのだ。――僕らにできることはきっとない……多分、もう他の場所にも火が放たれている……。

そして兄に頬を叩かれて、初めて我に返った。――ここで街の連中を見捨てたら、俺たちは単なる人殺しだ！

「持てる知恵を尽くして大勢の仲間を動かし、危機を切り抜けてきたことに、そのつもりはなくても驕っていたのかも知れない。――確かにあのとき僕を支えていたのは、悪政を正すという大義でした。でもそれは簡単に自己陶酔へとすり代わり得る。いざというときには怯惰にも」

店の者が近づいてくるのを見て、夕揮は口を噤む。

注文はないかと問われた桓魋は、酒をもう少し持ってきてくれるように頼んだ。燗酒が置かれて再び沈黙が戻っても、夕揮は顔を上げようとはしなかった。

「拓峰で兄と僕についてきてくれた人々は、ほとんどが死にました。生き残った僕は王に知己を得て、こうして大学で安穏と生活することを許されている。――入学を許可されたときは、本当に嬉しかった。優秀な成績を収めようと努力もしました。でも次第に分からなくなってきたんです。これでいいんだろうかと」

膝の上で握り締めた自分の手を見つめながら、夕揮は残りの言葉を一息に言い切った。

「大学を卒業した者は、そのまま行けば官吏として国府に配属される。しかも最下官ではなく、最初からある程度の地位を与えられて。でもそんなことになれば、僕はいっそう視野の狭い、驕った人間になってしまうでしょう」

――僕はそれを自分に許せなかった。だから允許を取れなくなったんです。

【後】

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