三つの前奏曲　�V

雪の上の足跡

春先の薄い雪が、太師邸の園林を覆っていた。

もう夕方と云ってもいい時刻だったが、ぼんやりと浮かび上がるような雪明りのせいで、まだ灯りをつけなくても書物の文字を追うことができる。

窓際に置いた卓子に書付を広げ、真剣な顔でそれを読んでいた鈴は、白い頁にうっすらと影が射したのに気づいて顔を上げた。

窓の向こうに立った青年がにっこりと笑う。

「久しぶりだね。……鈴」

大人びた顔立ちと、物柔らかな低い声。これは誰だろうと首を傾げかけた鈴は、思わず声を上げた。

「――夕揮じゃないの」

立ち上がって窓を開けると、冷たく澄んだ空気が堂室の中に流れ込む。

夕揮は白い息を吐きながら、鈴を見上げた。

「……ちょっと見ない間に随分変わったみたい」

「鈴は変わってないね」

仙籍にある者が時間から隔てられていることを承知の上で、夕揮は軽く笑う。

「誰かいるかと思って覗いてみたんだ。ちょうど夏官府に用事があったものだから、帰りに太師邸へ寄るお許しも頂いてきた」

「夕揮が夏官府に？　何だか珍しい取り合わせね」

すぐに行くから隣の堂で待ってて、と鈴に言われ、夕揮は頷いて窓辺を離れた。

◆ ◆ ◆

陶器の触れ合う軽い音に顔を上げると、茶盆を手にした鈴が房室に入ってくるところだった。

さっきは何を読んでいたの、と夕揮が訊ねると、茶器を調えながら鈴はうっすらと顔を赤くした。

「――何も。ただの読書よ」

そう、と答えた夕揮がそれを鵜呑みになどしていないと分かったのだろう。腰を降ろすと、鈴は困ったように笑った。

「嘘。……まだみんなには言ってないんだけど、今度、春官府に異動願いを出そうと思ってるの。だからそのための勉強」

茶器を受け取った夕揮は、しばらく鈴を眺めていたが、やがて静かな声で訊ねた。

「鈴はもう正式な官位を持っているんだから、わざわざ考試の必要はないんじゃないかな。受けるにしても、初歩のものはいくつか免除されるだろうに。……最初から全部受けるつもりなの？」

「だって府第が違えば仕事だって違うでしょう。きちんと勉強しておかないと、後で大変な思いをするのは自分だもの」

それに実力で評価してもらわないのは公平じゃないし、と鈴は肩をすくめる。

そう、と短く答えた夕揮は、ややあってためらうように付け加えた。

「――どうして春官府なのか、訊いてもいいかな」

窓から射し込む雪明りのせいで、室内にはくすんだ灰色の光が漂っていた。

茶器を両手でくるみ、鈴は言葉を選びながら口を開く。

「夕揮なら知ってると思うけど、各地の里家の運営には春官府が深く関わってるでしょう。陽子に余裕ができて、ひとまず安心できるようになったら、そういう仕事がしたいと思ってた。……親や家をなくした子供たちが、もう清秀みたいに辛い思いをしなくて済むように」

――清秀。

慶に向かう船の中で、鈴が出逢った身寄りのない子供。拓峰で轢き殺された幼い少年を、彼女はまだ忘れていなかったのだ。

あの頃のことを忘れられない自分と同じように。

「慶の国自体、まだ小さい子供みたいなものだと思う。だってほんの少し前まで、国中が戦乱や災害に巻き込まれていたんだもの。――翠微洞にいた頃、毎日辛かったことを思い出すと、まだそういう子供たちもたくさんいるんじゃないかって」

長い船旅で慶へ来る前に、鈴が才国で飛仙に仕えていたことは夕暉も知っていた。――確か拓峰の乱の後、鈴は一度才に戻ったはずだ。

「確か梨耀……といったね。その人は、まだそこにいるの？」

鈴はため息をついて首を横に振った。

「分からないの。……あの後、翠微洞の人たちはみんな王宮に召し抱えられたんだけど、梨耀さまだけが姿を消して、そのまま行方知れずだって。飼っていた赤虎もいなくなって、洞堂は閉められたって聞いたわ」

窓の外に目をやって、鈴は呟く。――あの赤虎、梨耀さまと一緒に行ったのかしら。

「そうだといいと、鈴は思っているんだね」

夕暉の言葉に、鈴は素直に頷いた。

「あたしが拓峰で乗ってた三騅、覚えてる？　馴らすのは大変だったけど、最後の頃にはよく懐いてくれたの。……乗り潰してもいいと思って買ったのに、死んだときには本当に悲しかった」

――あの赤虎だけは、梨耀さまが好きみたいだったから。

【後】

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