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慶国の征州城から帰還した陽子は、見たこともないほど優美な獣を傍に従えていた。流れ落ちるような金色の鬣と、真珠色の角。 けれど転化して衣服を改めたその姿を、同じ玄英宮にいながら、楽俊はひと月近くも目にすることがなかった。 ――早春から盛夏までの長い日々。 呪で角を封じられ、暗い地下牢に幽閉され続けた麒麟は、それほど深く病み疲れていたのだ。
◆ ◆ ◆
新しい主とともに雁の王宮に迎えられた慶の台輔は、すぐに玄英宮で最も清浄な一隅――延麒の起居する仁重殿に運ばれ、それから数日間は黄医が傍を離れることがなかった。 再び慶への遠征に赴く前、碧双珠を置いていくと陽子が申し出たのに、景麒はそれを固辞したのだと、後から延麒が耳打ちしてくれた。 ――戦場でいつ必要になるか分からない、それにもともと宝重は王のものだからってさ。 相変わらず頭の堅い奴だよな、と笑う少年の声を聞きながら、楽俊はいささか驚いたものだった。 十二国それぞれに一人しかいない、至高の存在。 慈愛と慈悲以外の心を持たないと云われる神獣に――意外に気安い延台輔の印象をさし引いたとしても――その形容がどうしても結びつかなかったからだ。
楽俊が身をもってそれを実感したのは、延王と雁の軍師たちに伴われた陽子が、慶の王都で最後の遠征を終えて玄英宮に戻った日のことだった。
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太陽が沈む瞬間に放つ緑の光は、幸運の印だという。
―― 緑の光線 ――
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その日、慶から帰還した一軍を、玄英宮の主だった人々が禁門で出迎えた。延台輔に声をかけられ、楽俊もその中に加わっていた。 楽俊の斜め前、少し離れたところには、背の高い金髪の人物が立っていた。――多分、あれが景台輔なのだろう。 光の下にあってさえ冷たい輝きを放つ金髪の背中を眺めながら、楽俊はそう考える。 征州から陽子が戻ったあの日以来、楽俊が慶国の台輔を目にするのは、これが初めてのことだった。
晴れ渡った夏の空の向こうから、騎獣たちの一群が風に乗って近づいてくる。 その先頭に翻る赤い髪を見とめて、楽俊は安堵でほっと肩の力を抜いた。 「――楽俊！」 目敏く友人の姿を見つけた陽子が、身軽に吉量から飛び降りる。 腰に剣を下げ、足早に歩み寄ってくる皮甲姿。――その一瞬、視界の端に映る金髪の肩がこわばったような気がした。 思わずそちらを見やった楽俊の前で、けれど景麒は何事もなかったように膝をつき、頭を垂れて主を迎える。 抑制の利いた、静かな物腰だった。 「――ご無事のご帰還、心からお慶び申し上げます」 疲れた様子も見せずに陽子は頷き、顔を上げた景麒を見てかすかに笑った。 「そうだった。……最初に逢ったときも、確かこんな風にされたんだっけ」 ――随分昔のような気がする。 ひとりごとのように呟いた後、陽子は再び笑顔で楽俊を振り返った。 「景麒、こちらが楽俊。巧国でわたしを助けて、ここまで一緒に来てくれた大切な友人だ。……玄英宮にいる間に、もう知り合いになったとは思うけど」 立ち上がった景麒が、主の指し示す手に従って、ゆっくりとこちらを振り返る。 祠廟に祀られた塑像を思わせる、端整な美しさを持った青年だった。 あの延王よりもまだ高いほどの背丈なのに、見下ろされる威圧感はまったくない。だが、その分生気は稀薄で、およそ感情らしい動きの見受けられない硬質な容貌も、彫像に閉じ込められたように遠く感じられた。 青年は袍の裾を捌いて静かに向き直り、楽俊に向かって丁重に頭を下げた。 「……御礼を申し上げます」 その無機質な声で我に返り、楽俊も慌てて礼を取る。 ――ここにいるのは人などではなく、確かに神獣なのだと思いながら。
衛兵に手綱を取られた騎獣たちが、厩舎へ引き取られて行く。 評議の前に短い休息を取るのだろう。それ以上の言葉を交わす時間もなく、陽子もまた軍師たちに囲まれて禁門の奥へ消えていった。 その姿が消えるまで見送っていた景台輔の横顔は、夏の陽光の下で、病的なまでに白かった。 並んで王宮へと戻りながら、楽俊がそう思ったことを口にすると、延麒は困ったように頭を掻いた。 「ああ……。あれは無理してるんだな、つまり」 同じ陽射しの下で、明るく濃い金髪が揺れる。 「今日だって、本当は黄医が止めたんだ。――ほら、陽子たちは戦場から帰ったばかりだろう」 近づいてくる陽子を前に、一瞬こわばった金髪の肩を思い出し、楽俊は今さらのように気づく。――麒麟にとっての何よりの禁忌は、血の穢れだ。 戦場で陽子が全身に浴びたはずの見えない血が、あのとき景台輔の目にはまざまざと見えたのかも知れない。 「戦から戻ったばかりの気配なんて、俺にもあんまり気持ちいいものじゃないからな。できるだけ無理はさせたくなかったんだけど、大丈夫だって言い張るんだから仕方がない」 延麒は足元の小石を蹴った。――まあ、そういうことなんだ。 「自分の具合が悪いままだとその分昇山が遅れるし、かといって蓬莱まで迎えに行って、一度は手離した主だ。無事に帰って来たかどうか、自分の目で確かめずにはいられない。――景麒にしてみれば、あの後すぐに引き取ったのが精一杯の譲歩だったんだろう」
◆ ◆ ◆
玄英宮に帰還した後も、陽子はさまざまな事後処理と、この先の準備に忙殺されているらしかった。 雁の大学の考試を受けることが許された楽俊もまた、延麒の計らいによって付けられた教師の許で勉学に励む毎日が続いた。 結局、再びゆっくり話をする機会が巡ってきたのは、新しい景王とその台輔が蓬山に向けて旅立つ前日――八月も半ばの夕暮れのことだった。
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