海の向こうからの手紙

―「恋文�V」 その後―

　　【後】

【 清漢宮―金波宮：　予期せぬ寄り道の報告 】

――みんな、変わりなくやっていますか。陽子です。

昨日で視察の日程はすべて終わりました。見たかったものを全部見せてもらって、たくさんの人たちから話を聞けて、とても実り多い訪問だった。留守を預かってくれたみんなには、改めてお礼を言いたい。本当にありがとう。

今日の昼過ぎにはこちらを発つのだけれど、実は慶に帰る前に、少しだけ寄りたいと思っている場所がある。

景麒。……黄海に行きたいと言ったら、おまえは反対するだろうか。

思いつきで言っているんじゃないんだ。ちゃんと説明する。

麒麟に選ばれるために、わざわざ雲海の下を通って黄海を旅する昇山者のことを聞いて以来、いつかわたしも自分の目で黄海を見なくてはいけないと思っていた。

こちらへ初めて来たときには、確かにわたしも苦しい思いをしたけれど、あれはいわば不可抗力で、自分で選んだものじゃなかった。でも昇山者たちは苦難を承知の上で、自ら望んで黄海に入る。

たとえ王になるのが目的だとしても、身の安全も結果の保障もない、命懸けの旅だ。野心や欲望だけで、そこまで踏み切るのは不可能なんじゃないだろうか。……だから自分の目で黄海と、そこにあるものを見たかった。

危ない真似は絶対にしない。黄海をよく知るおまえがどうしてもだめだと云うなら、潔く諦める。その上で聞きたいんだ。

いいだろうか、景麒。黄海に寄っても。

……ありがとう。

ではみんな。随行の官たちには話をして、一足先に慶に帰すことにします。わたしたちは少しだけ寄り道をした後、まっすぐ慶に帰る。久しぶりにみんなの顔を見るのを楽しみにしているね。

これからもう一度公主とご家族のところへ行って、私的なお礼とご挨拶を済ませてきます。……景麒、おまえの分を話し終わったら、鳥を飛ばしておいてくれる？　……うん、わたしの分はこれで終わりだから。

それじゃ、次は台輔から最後の伝言です。

明るい午後の窓辺で、二人の娘は呆れたように顔を見合わせた。

「……陽子らしいというか……」

「これじゃ、台輔も反対できっこないわよ」

ため息の終わりは苦笑に変わり、鳥に銀粒を与える鈴を眺めながら、こんな風に一緒に休日を過ごすのは久しぶりだと祥瓊は思う。

桂桂が瑛州の少学寮に入った後、祥瓊も後ろ髪を引かれるような思いで秋官府の官寮へと住まいを移した。仕事が多くなって帰宅が遅れることも増え、官府に近い方が便利だろうと周囲も勧めてくれたからだ。

大分静かになってしまったこの官邸には、今では太師と虎嘯、そして鈴だけが残っている。けれど、頻繁にここを――というよりは黒髪の娘を――訪れるひとりの青年がいることを、祥瓊は知っていた。

……便りが来たと知らせておいたから、もうそろそろ姿を見せてもいい頃だ。

祥瓊がちらりとそう考えたとき、しっかりとした足取りで庭先に現れた若い夏官の姿があった。

夕暉、と呟いた鈴が嬉しそうに立ち上がる。

不意の来客に驚いたのか、羽根を広げて窓の外へと飛び出してしまった鳥を見上げて、夕暉は苦笑した。

「鸞が届いたって聞いたから、急いで来たんだけど。――驚かせてしまったみたいだね」

主上はお変わりなく、と訊ねながら入ってくる夕暉の視線は、こういうとき、いつも真っ直ぐに鈴だけを捉えている。

隣にはわたしもいるのだけれど、と内心苦笑しながら、祥瓊は棚からもうひとつ茶器を取り出す。――先程とは違う、曇りのない笑顔で頷いた鈴は、きっとまだ気づいてはいないのだ。

やがて静かに訪れる、もうひとつの春があることに。

二度目の湯が沸く頃、再び戻ってきた鸞が鈴の指先に止まった。

まだ届けていない便りがあるらしい。

静かにしていなくちゃだめよ、と声をひそめる鈴の横で、夕暉が笑いながら頷く。祥瓊がその向かいに腰を下ろすと、鳥は軽く居住まいを正すように背筋を伸ばした。

奏国から届いた最後の便りは、ここでは誰もが聞き覚えのある、長い長いため息から始まっていた。

【 清漢宮―金波宮：　鸞が届けた最後の便り 】

――直接帰国の予定ではあったのだが……。あのように仰られては、お止めすることも叶わず……。

三日ほど遅れるやも知れぬことを、諸卿にはあらかじめお詫び申し上げる。

王と台輔が揃っての留守を預かって頂いたこと、冢宰には特に御礼申し上げたい。視察内容については、委細漏らさずしたためた書状を別途お送りする故、そちらをご覧頂くように。

なお、鈴と祥瓊には、主上が隆洽の街で土産を探しておいでだったと伝えてほしい。……実に楽しげなご様子だった。

こちらでの滞在は終始順調だった。主上が就寝以外のほとんどの時間を公務に充てられ、万事に惜しみなく力を尽くしておいでだったことを、特にお伝えしたい。

黄海の件についても、決して興味本位や好奇心からではないのだと、あのように仰る様子を見ていれば分かる。その旨、わたしからも口添えしたく思う。

帰国までの道のりは、使令一同総力で警護に当たらせる故、主上の御身の安全についてはご安堵頂きたい。

今回の視察は、わたし自身にとっても目を開かれることの多い、実りあるものだった。……その意味でも諸卿には感謝申し上げる。目に映るものすべてに新鮮な驚きを示し、真っ直ぐに対象へと向かって行かれるあの方の傍にいると、わたしはこれまで世界の何を見ていたのだろうと思うことがある。

そうして黄海を経て、帰る先はもはや蓬山ではなく生国であり、傍らには常にあの方が在るのだと思うと――

そこまで話すと、鳥は何故かふっと口を噤んでしまった。

祥瓊と鈴が訝しげに顔を見合わせる。

きっと疲れてしまったんだよ、と笑った夕暉が、袋から銀粒を取り出そうとしたときだった。

鳥は再び嘴を開いた。そして、あの低い声が風のように告げる。

――とても、幸福だ……と。

遠く海を越えた声が最後に囁いたのは、あの端整な台輔の内側に隠された――そして彼らが初めて耳にする――きわめて個人的な感情の断片だった。

【中】

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タイトルは、辻邦生の短編から。