その花は、内殿から瑛州府へ続く回廊の下にひっそりと群生している。

正式には擶苡と呼ばれるそれは、美しい花々の絶えない王宮の庭ではあまりに慎ましく、人目を惹くこともなかった。けれど毎年雨季になると必ず、彼らは小さく真珠のような実を結ぶ。

たとえ人がそれを知らなくても、植物には個としての感情があり、種族としての記憶がある。種子は前年の記憶を宿して地に落ち、内包された感情は次の花に受け継がれていく。

だから彼らはしばしば回廊を早足でよぎっていく赤い髪の少女を覚えていたし、ほとんど足音を立てずに通り過ぎる金髪の青年も知っていた。――さらに云えば、その青年が主と呼んだ人がもうひとり、六年前にもいたことを。

赤楽と名づけられた王朝が六年目を数えようとするその頃、王宮の庭は柔らかな雨の季節を迎えていた。

霧のような雨が、しっとりと空気を濡らす午後だった。

その日は朝議を終えた後もしばらく外殿に留まっていたため、景麒が瑛州府に向かったのは、正午も大分過ぎた頃だった。

朝から降り続く雨で、広い園林には濡れた新緑の匂いが漂っている。柔らかな灰色の空に目をやりながら、景麒が回廊を曲がったときだった。

円柱の向こうに、二つの人影があった。――女史と女御。落ちつかなげに視線をさまよわせる祥瓊に、鈴が宥めるように声をかけている。

珍しいことではあった。

主の友人とはいえ、日頃はきちんと立場を踏まえて振舞う彼女たちが、こうした場所で私語に興じることはない。

台輔に気づいて礼を取る二人の前を黙って通り過ぎる訳にもいかず、足を止めた景麒はやや儀礼的に声をかけた。

「……何か、大事でも」

反射的に顔を上げた祥瓊は、無表情な白皙に一瞬躊躇したらしかったが、すぐに切羽詰った調子で口を開いた。

「言い争いをしてしまったんです。陽子――いえ、主上と」

景麒は軽く眉を上げる。

動揺しているのだろう。状況説明を省いて主題から切り出す直裁さは、この女史にしてはいささか珍しいやり方だった。

「ついさっきまで、陽子に耳墜の孔を開けるように勧めていたんです。耳環だとすぐに落としてしまうし、もういい加減、罪人なんて言い訳も通じないでしょうって」

話を把握しかねて眉を寄せた景麒に、横合いから鈴が説明を添える。

耳に孔を開けるのは、蓬莱では罪人の習慣なのだと主張して、陽子はこれまでにも断り続けていたらしい。けれど耳環をつけさせられる都度、金具が痛いので緩めては落とすということをくり返し、ついに正寝の女官たちが痺れを切らしてしまったのだという。

――主上には是非ともご辛抱頂かなくては、今に御庫の耳環がすべてなくなってしまいます。

最も身近で王の世話をする彼女たちの心証を害しては、いちばん困るのは陽子だ。女官たちの陳情を聞いて、説得役を引き受けたのが祥瓊だったらしい。

「この間も、これを片方落として踏んでしまったらしくて」

そう言って祥瓊は掌を広げ、その小さなものを景麒に見せた。

おそらく範国辺りの細工なのだろう。幾つもの色硝子を溶かし込んで造られた、美しい蜻蛉玉の耳環だった。

光を通すために中空になった玻璃を、小さな沓が踏み砕くさまを想像すると、彼の胸も何故か痛んだ。

「だからついきつい言い方をしたら、陽子はそのまま堂室を出て行ってしまって……」

わたしが悪かったんです、と祥瓊は俯く。――陽子の言い分も聞かなくちゃいけなかったのに。

静かな雨の音は続いている。

関知し得ない領域の話であってみれば、良い忠告も見つからない。景麒がため息をついたとき、祥瓊は小さな玻璃の玉をもう一度握り締めた。

「……わたし、陽子を探して謝ってきます」

 ◆　　　　　　　　　　　　　　◆　　　　　　　　　　　　　　◆

――相談、というよりは、思考を行動に移す過程で気持ちの整理が必要だったということらしい。

回廊を走るように遠ざかっていく祥瓊の後ろ姿を見送って、景麒は再びため息を落とす。

「いつもなら、祥瓊もあんなに気にしたりしないんですけれど」

同じように友人を見送っていた鈴が、そう言って穏やかに笑った。――口喧嘩なんてよくあることですから。

「でも、今日は少し違ったみたい。祥瓊が陽子に耳飾りをさせたいのには、祥瓊なりの訳があるんだろうし、陽子がそれを嫌がるのにも、多分陽子なりの理由があるんです。……きっと」

景麒は視線を改めて、小さな海客の娘を眺める。

――王気を辿ることのできる台輔を前にしながら、祥瓊は陽子の居場所を訊ねず、事情を知っているらしい鈴は、それでも祥瓊と陽子の間に割り込まない。

そして回廊に立つ彼らの傍では、樋を伝った雨の雫が、失われた玻璃のようにこぼれ落ちている。

細く透明な糸雨の下で、季節の恵みを楽しんでいた草たちは、濡れた土の上を駆けてくる軽やかな足音を聞いた。

水に煙る午後の中、赤い髪が花のように揺れる。

雨を避けるために路亭へ駆け込もうとした少女は、ふと草叢に目をやって足を止めた。それから草陰を覗き込むように身をかがめ、懐かしそうに手をのばす。

――こちらにも、数珠玉があるんだ……。

それは常世に根付く彼らにはなじみのない名前だったが、少女が優しく触れてくれたことを、彼らはとても嬉しく感じた。

やがて草の葉から手を離すと、目の前の路亭に入ろうとはせず、陽子はそのまま階段の端に腰を下ろした。

周囲の風景は柔らかい霧雨に煙っていた。細かな雨が視界にかすかな跡を残し、髪や肩を静かに濡らしていく。

祥瓊と衝突して内殿を飛び出した後、勢いに任せて辿りついたのは、広い園林の隅でひっそりと忘れ去られた小さな路亭だった。

もともと、胸を波立たせる出来事のあった午後だった。そうでさえなければ、あんな風に言い過ぎることもなかっただろうに。

ため息をつきながら、それでもためらいがちに耳環をさし出した祥瓊の言葉がよみがえる。

――無理難題を押し付けるつもりはないわ。でもこれだけは知っておいてほしいの。御庫の宝物は王のものだけど、王一人のものじゃないのよ。それに耳飾りは……。

――自分のものじゃないのなら、わたしがそれで自分を飾る必要なんてないはずだ。大事にしまっておけば、踏んで壊してしまうこともない。

それは祥瓊にあげるから、と冗談のつもりで続けると、片方だけになってしまった耳環を手に、祥瓊ははっきりと顔をこわばらせた。

――莫迦なこと言わないで。誰がそんなことを頼んでるって云うの。

――わたしだって何も頼んだ覚えはないよ。結局は王も飾り物ってことなんだろう？　祥瓊はわたしを人形のように飾り立てたいだけなんだ。

怯んだように一歩後ずさった祥瓊の目を見て、言い過ぎたと気づいたときにはもう遅かった。

「……わたしは、本当に莫迦だ」

そう呟いて、陽子は膝の上に顔を伏せる。

灰色の空の下、雨は相変わらず降り続いている。