――瑛州府の政務が終わって、時間があれば……正寝へおいで。

その日、朝議を終えて別れる間際の回廊で、主は静かにそう囁いた。

彼女の言葉を聞き違えるはずなどないのに、それでも確かめるように緑の瞳を見返した景麒に向かって、陽子は小さく慫慂を添える。

――もし、よかったら。

その控えめな語尾が打ち消される前に、景麒は身をかがめ、短く承諾の意を伝えたのだった。

花曇りとは、こんな午後のことを云うのだろう。

あの夜と同じ回廊を、今日はすれ違う女官たちの礼を受けながら、景麒は主の私室へと向かう。終始灰色だった空は、結局晴れることなく、春の一日が終わろうとしていた。

書房にいた陽子は、ごく落ち着いた物腰で彼を出迎えた。

庭に出ようと言いながら、主は窓扉を開く。後に従おうとした景麒は、その手元に目をやって声を呑んだ。

――色褪せた錦織の袋。

中に何が入っているのかは、訊かなくても分かる。

露台から振り返り、陽子は静かな声で告げた。

「……せめて、鏡だけでも弔ってやりたい」

◆　　　　　　　　　　　　　　◆　　　　　　　　　　　　　　◆

階段を下りた主が向かったのは、庭の片隅にある桜の木だった。

その根元に膝をつくと、あらかじめ積み上げてあった枯れ枝に火種を移す。やがて小さな炎が上がり始めた頃、陽子は枝の上に割れた鏡を乗せ、同じ袋から取り出した木片をくべた。

香木――おそらく沈香だろう。苦みを帯びた芳香が、魂を失った鏡を包んで一条の煙となり、桜の幹を伝って灰色の空に昇っていく。

見るからに慎ましいこの桜も、今夜が満開だった。

糸一筋ほどの力で、すべてが繋ぎ止められたような静謐の中、一斉に散り始める瞬間を花たちは待っていた。

その姿を見上げ、陽子が呟く。――桜の花には香りがないから、こんなに満開でも、まるで幽霊のようだ。

「蓬莱の桜はもっと華やかで、花も枝もぎっしりと重いんだ。ちょうど物事が終わったり始まったり……そういう節目の頃に咲くから、ただでさえ落ち着かない季節なのに、眺めているといっそう心が騒ぐようで苦手だった」

かけるべき言葉を持たない彼の前で、主は香木の煙にそっと手をかざした。

――あまり良い思い出は、ないような気がするよ。

浩瀚から短い経過報告があったのは、昨日の午後だった。

あの女官の身柄は秋官府に預けられ、近日中に審議が始まる予定だという。仙籍剥奪の上、王宮追放は免れないものの、極刑が下されることはないだろうとのことだった。

あの日の夜明け、虎嘯に促されて退室する女官を見送った後、審議には宰輔の名による減刑請願を添えるよう、彼は浩瀚に依頼したのだった。――いかなる審議にも、王自身がその請願をすることはできない。

仙籍を離れて只人となり、あの女官はこれからどのように生きていくのだろう。それとも人は、長い冬の苦しみの後でさえ、再び立ち上がる強さを備えた存在なのだろうか。

めぐり来る春を迎えるたびに、そうとは気づかぬ内に少しずつ、再生の洗礼を受けながら――かつて彼自身がそうだったように。

春が再生を運ぶ季節なら、そこには生者だけではなく、死者の魂もつかのまの陽炎となって立ち戻ってくる。

鏡が砕ける直前、幻のように現れ、そして消えていった女の姿。

あの袍の色を、景麒はかつて何度も目にしたことがあった。――王の貴色に準じた薄い青。あれは予青の時代、正寝の女官だけが身につけることを許された衣裳だったのだ。

勅令によって女が追放されたとき、おそらく彼女も王宮を去ったのだろう。

その後、彼女がどのような年月を経て、この世を去ったのかは分からない。鏡の亡霊と彼女の間にどんな関わりがあったのかも、ついに知り得ないままだった。

――それだけは、先の方を恨みに思う。

孤独な暗闇でそう呟いた主は、今、桜の下に佇み、小さな送り火を見つめている。

その姿を前に、自分の過去が彼女に与えている悲しみの深さを思った。

あなたに出逢ったのは、この花がまだ固い蕾に覆われて眠る季節だった。

必然の積み重ねが現在だとすれば、この世界に偶然と呼べるものなど何一つないと分かってはいる。

――それでも。

わたしは何故、初めての者として、あなたの前に立てなかったのだろう。

焚火の上には、割れた鏡が置かれている。

薄い香煙に包まれて、一度は別れた二つの欠片が、再び一つの円へとゆるやかに結ばれていくように見えた。

香木のはぜる音を聞きながら、景麒は手をのばし、失われた時間を引き寄せるように陽子を抱いた。

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見慣れた袍に視界を覆われ、香木ではない薫りに包まれていることに気づいたとき、陽子は反射的に身を離そうとした。

この時刻、内殿から戻った主を迎えて、正寝の各所ではとりわけ多くの人々が行き交う。庭院に面した回廊にも、次第に灯りが増え始めていた。

――だめだ。

小さな混乱の中で、陽子はそっと彼の胸を押し戻そうとする。

この正寝にも、先王と彼のことを記憶する者が当然いるだろう。――もし、今ここに誰かが来たら。

不思議なことに、そのとき陽子が危惧したのは、人々の非難そのものではなかった。自分自身に向けられる中傷なら、いくらでも受け止める。ただ、景麒が再び誹謗の視線にさらされることだけは耐え難かった。

だが、彼の腕は緩む気配を見せなかった。

もう隠すことはしないと、その抱擁が語っていた。――過去に起こったことも、そして現在手にしているものも。

その腕に包まれたまま、陽子は震える声で囁いた。

「……いいの？」

短い言葉に込められたあらゆる問いを肯定して、低い声が答える。――構いません。

「……本当に？」

もう答えはなかった。

陽子は手を降ろし、ゆっくりと肩の力を抜く。身体の重みをすべて預けても、景麒の腕は揺るがなかった。

こんな風に誰かに自分をゆだねるのは、生まれて初めてだった。

――忘れ得ぬものは、誰にでもある。

その傷痕を癒し、再び緑で覆うために春は来るのだ。

生きている者にも、死者の魂にも――すべての記憶と時間の上に。

陽子を腕に抱いたまま、やがて彼は囁いた。――こんなに美しい再生の季節を、どうか厭わないで下さい。

そうして花に覆われた宵闇の中、陽子がこの世で最も愛する声は告げる。

「……あなたは、わたしの春です」

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薄墨の空から、春の夜が降りて来る。

溶け合う二つの影を包み、水のように広がる香木の煙が、静寂の中に薄く漂っていた。 

タイトルは、ダウザー（dowser: 水脈探知を行う人）の私訳から。冒頭の引用は、今昔百鬼拾遺・雲之巻より。

３５万打をご落札下さった瞳子さまのご注文は、「ホラー風味の物語を」という大枠。そこに管理人から、「返魂」その他の内容を自由に加えさせて頂いた結果、全７章の長編となりました。

リクエスト作品がいつもそうであるように、書くことの喜びを心から味わうことができたこの小説を、瞳子さま及びすべてのマドモアゼル方にお捧げします。