これは彼と彼につらなる人々の物語である。

彼は神に従う無垢な人だった。

神の呪いを受けた大地、そこに生きる人々の辛苦を和らげるために

彼は「慰め」と名づけられた。

目覚めよと呼ぶ声が聞こえ

― prologue ―

――はっきりと目覚めるまで、意識は長く、遠い浅瀬を漂っていたような気がする。

長い辛い夢を見ていた、と後に告げた言葉の通り、深い昏睡の底から浮上した瞬間、それまでの七年は夢の向こうに消え去った。

そして夢と入れ替わった世界はゆるぎない現実へと変わり、ようやく帰ってきた我が子を、その懐深く迎え入れたのだった。

窓の方で軽やかな影が動いたように感じて、泰麒は牀榻に横たわったまま、ゆっくりとそちらへ目を向けた。

花壺に活けられた白い萩の向こう、ふわりと窓枠を越えて室内に降り立ったのは、金髪の少年だった。

無造作に見えながらも、細心の注意を払っていることが分かる足取りで、少年は牀榻の脇に立つ。

「――よう、ちび」

何度か瞬きをくり返し、泰麒は少年の顔を見つめた。

いつも笑いを湛えているような青紫の瞳が、やがて記憶の底で焦点を結ぶ。――ああ、これはかつて幼く無知だった自分に、手をさしのべてくれた同族だ……。

「……延台輔」

そう呟いた泰麒を見て、分かるのか、と六太は安心したように笑った。

――戴の麒麟は礼儀を知らぬと見える。

故国の王宮で初めて出逢ったとき、上段に立った少年は厳しい表情でそう言い放った。正面には沈黙する雁の国王、脇に立つ無表情な慶の台輔、そしてその場にはもう一人……。

失われた痛みが甦る前に、六太の声が耳に届いた。

「大体の話は李斎から聞いたと思うけど、混乱しないように、もう一度簡単に説明させてくれ。――今、おまえがいるここは、慶東国だ。首都堯天の金波宮、王は中嶋陽子。おまえと同じ胎果の生まれで、景麒にとっては二度目の主になる」

驚きの色を浮かべた彼に、六太は頷いて続ける。

「おまえの知ってる景王は、三年前に景麒を残して禅譲した。……まあ、その話をすると長くなるから、今は省く」

数ヶ月前、戴の将軍を名乗る武人が金波宮の禁門を破り、景王に面会を求めたことがきっかけだったのだと、少年は簡潔に語った。王の行方が知れず、台輔も姿を消した故国を救って欲しいと懇願する将軍を、とりあえずは保護したものの、慶にしてもそれ以上の事情が掴めない。

「……そこで陽子が雁に連絡をよこして、俺と尚隆が慶へ来たって訳だな」

何でもないことのように説明されるひとつひとつが、決して簡単なことではなかったのだと容易に想像できる。淡々とした六太の言葉を噛み締めながら、何度か目を閉じずにはいられなかった。

「まずはできることから始めようと話がまとまって、おまえを探すことになった。ここに集まったのは俺と景麒、氾麟、それから廉麟だ。奏の方でも宗麟に加えて、供麒や才麟が力を貸してくれた」

どっちを向いても麒麟だらけで目が回りそうだったよ、と六太は肩をすくめる。

僕は、と言いかけた声が震え、泰麒は深く息を吐いた。

「……お礼を申し上げなくてはならない方々が、たくさんいるのですね」

そっちも後回しでいい、と六太は屈託なく笑った。

高い天井の漏窓からは、澄んだ朝の光が射し込んでいる。薄い紗で覆われた黒檀の牀榻や、壁に掛けられた対聯の文字。

堂室のどこを見渡しても、かつての現実だった異界を思わせるものは何もなく、それが却って彼の心に強い帰属感をもたらした。

牀榻の脇に立ったまま、やがて六太は低く呟いた。

「本当は、もっと早くに探してやりたかった。……済まない」

いいえ……いいえ、とくり返しながら、泰麒は目を閉じる。

――では、自分は本当に帰って来たのだ。

こんなにも長い、空白の後で。

◆　　　　　　　　　　　　　　◆　　　　　　　　　　　　　　◆

こうして目を閉じていると、空白の底から無数の問いが湧き上がってくる。

世界からもぎ離されたあの日以来、故国はどうなったのだろう。王宮で彼の周囲にいた優しい人々、新王の登極を心から喜んでいた多くの民。――そして、禍が吉事を生むようにと語り、彼を蒿里、と呼んだ懐かしい人は。

深い吐息の底にそれらを沈め、泰麒はそっと問いかける。

「慶の……景台輔の新しい主は、どんな方ですか」

そうだなあ、と六太は腕を組んで天井を仰いだ。

「年はおまえと同じくらいだな。登極の頃から、雁とも浅からぬ縁があるんだが、そっちも後でゆっくり話すよ。そもそも今回の一件は、陽子の提言で始まったんだ。……何て言うか、慶には珍しい種類の女王だよ。尚隆と正面から言い争う度胸もあるし、その挙句に堂室を飛び出した陽子を追っていく程度には、景麒も懐いてるみたいだ」

景台輔が、と目を瞬いた泰麒を見て、六太は笑った。

「奴も変わったよ。自分では気づいてないらしいけど」

――今の王にお逢いしたとき、この方ではだめだと思いました。

遠い日、白圭宮の露台で、年上の麒麟は静かに告白した。

ついてくるなと命じられぬ限り共に行く、と彼は確かに告げたのに、その人は彼を残して一人で去ってしまったのだろうか。

その頃の王もすでに亡く、景台輔は今、同じ蓬莱から迎えた新しい主とともに在るのだという。

失われた時間の端と端が、不意に結び合わされるような感覚に、軽い目眩を覚えたときだった。

「噂をすれば何とやらだ。……ほら」

六太の視線を追っていくと、衝立の向こうに、背の高い人影が見えた。

入室しかけてためらうように足を止め、その人は気遣わしげにこちらを見つめている。――かすかにひそめた濃紫の瞳、冴え冴えとした金色の髪。

「……景台輔」

そう呟いたとき、泰麒は自らが失ったものの大きさに改めて気づいたのだった。

かつては淡い金色として感じられた、同族の気配。――今の自分には、それがまったく感じ取れないのだ。

衝立の前で立ち尽くす青年からも、そちらに向かって軽く手を上げた少年からも――それらしいものは何ひとつ。

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