|
――どうしてあんなことしか言えなかったんだろう……。 文箱を抱えて内殿に向かいながら、祥瓊は深く俯く。 走廊の廂越しには、晴れ渡った初夏の空が広がっているのに、気持ちは沈んでいく一方だった。 素直でなかった自分にも愛想が尽きる思いだったが、それ以上に胸を塞ぐのは、気遣う言葉を何一つかけて上げられなかったことだ。 ――本当は、それだけを伝えたかったのに。
◆ ◆ ◆
桓魋が結構な怪我を負ったらしい。 虎嘯が何気なくそう漏らしたのは、昨夜、いつものように太師邸で夕餉を囲んでいたときのことだった。 顔色を変えた祥瓊に気づくと、しまった……と言いたげに虎嘯は口を濁したが、とても聞き流せるような話ではない。箸を置いて問い詰めたところ、手合わせの最中、相手の槍が折れて桓魋の脇腹に突き刺さったらしい、と虎嘯は渋々説明したのだった。 ――まあ、その、騒ぎにするなと瘍医も呼ばなかったそうだし、ここはひとつ穏便にだな……。 宥めるような口調が、かえって祥瓊の憤りに拍車をかけた。穏便に、とは断じてそういうときに使う言葉ではない。 後片付けもそこそこに官邸を走り出て、夜の舗道を突っ切って辿りついた門前で、青将軍は御在宅かと尋ねると、顔見知りの衛士は快く奥へ取り次いでくれた。 突然の訪問に驚いた風もなく、桓魋は簡素な書房へと祥瓊を迎え入れた。夕飯は済ませてきたのか、と訊ねる口調も、普段と少しも変わらない。 勧められた椅子を断って、怪我をしたって本当なの、と正面から切り出すと、桓魋はため息をついて天井を仰いだ。――虎嘯の奴、やっぱり口を滑らせたか。 「瘍医にはもう診てもらったの？」 なじるように問われて、桓魋は黙って頭を掻く。 「仙だからって、急所の傷を放っておいていいはずがないでしょう？ どうして防具を着けなかったの？ いくら手合わせと云っても、最低限の準備は武官の常識だわ。大体あなたって、日頃から本当に……」 「――用件はそれだけか」 そっけない声に、祥瓊は思わず口を噤む。 あなたが心配で走ってきた、そんな風に起きていて大丈夫なの――とは口が裂けても言えない娘の前で、桓魋は億劫そうに手を振って見せた。 「仰せの通りの怪我人だ。……他に用がなければ、この辺で引き取ってくれるとありがたい」
|
― you are so beautiful−
|
|
|
次の休日、朝早く起き出しながら昼過ぎまで悩んだ挙句、祥瓊はひっそりと太師邸を後にした。 王の御座所と同義語で呼ばれる尭天山も、実際に王宮自体が占めているのは、山頂のごく一部に過ぎない。雉門から続く山麓には、各府第の主楼と廂房が立ち並び、外朝と呼ばれる中腹には、主に国府に勤める官吏の宿舎が設けられていた。 朝議に列席するほどの高官ともなれば、山頂部にある内朝に独立した官邸を与えられる。当然ながら桓魋も、見晴らしのよい高台に広い館第を賜っていたが、彼がそこで私的な時間を過ごすことは少なかった。気楽で雑多な空気が好きなのだろう。休日はほとんど外朝の夏官舎にいて、武具の手入れをしたり、部下の練習試合に付き合ったりしている。 だからこんな風に晴れた休日の昼下がり、彼に会おうと思うなら、外朝の練兵場まで降りて行かなくてはならないのだが、祥瓊にとって、そこは少しばかり敷居の高い場所でもあった。
尚武とは縁遠い女王の代が続いたせいか、慶国の禁軍は今ひとつ覇気に欠ける――というのが、これまでの大方の評価だった。 軍とは統率者の力量に大きく左右される組織だ。剣の鍛錬より出世競争に熱心な上官の許では、兵卒ばかりが大義を重んじるはずもなく、かつては武器の横流しや略奪行為も平然と行われていたという。一頃の慶国で禁軍兵といえば、見かけ倒しや無法者の代名詞とすらされていたらしい。 そうした空気を刷新したのが、拓峰の乱という異例の経歴を経て、麦州から抜擢された青将軍だった。 事実上の禁軍総帥となった彼は、もともとが麦州の兵卒出身で、兵士特有の気質を知り尽くしていたから、緩急を心得た手綱捌きで、下官の信頼を勝ち取るのにも時間はかからなかった。時には自ら剣を取って麾兵の相手をすることもあり、その豪腕と磊落さは禁軍内でも広く知られている。 加えて現在の女王の存在も、軍紀の向上に一役買っていた。胎果の少女でありながら、登極前後で二度の乱を鎮圧しているという経緯や、将軍相手に剣の稽古もするらしいという噂は、出自よりも実力を重んじる軍隊の気風によく適っていた。 こうした異色の女王と将軍を戴き、目下のところ、国府で最も活気に満ちている府第は夏官府だとも云えるのだった。
午後の練兵場は、大勢の兵士で賑わっていた。 剣や槍の鍛錬に精を出す一群の脇を、手合わせを終えた将卒が汗を拭いながら通り過ぎていく。こんな場所には明らかに不釣合いな祥瓊の姿に目を留めて、不審そうな一瞥を投げる者もあれば、興味深げにこちらを眺める者もいる。 木戸の傍に立ち尽くしたまま、どんな風に取り次ぎを頼んだものか迷っていると、談笑の輪の中から小柄な女兵卒が振り返った。 「おや、小姐じゃないの」 朗らかにそう言って破顔したのは、かつて拓峰の郷城で知り合った女だった。ほっと肩の力を抜くと、祥瓊は軽く頭を下げる。 乱の後、古馴染みの虎嘯とともに王宮に上がった彼女は、以来鈴と一緒に正寝の女官を務めていたが、新朝がひとまず落ち着き、王の周辺にも信頼のおける女官たちが揃ったと見るや、さっさとお仕着せの衣裳を脱ぎ捨てて、禁軍の一兵卒になってしまったのだった。 下町育ちのさばけた気性で、拓峰でも敏捷に立ち働いていた彼女を指して、弓射の腕前は夕揮に並ぶ、といつか桓魋が評していたことがある。 ――もともと女官なんて柄じゃないし、こういう荒事の方が性に合うんだよ。 朋輩だった鈴が兵舎を訪ねた折、そう言って笑った彼女は、片目をつぶって付け加えたという。 ――拓峰に帰ろうかとも思ったんだけど、あたしがいないと虎嘯が寂しがるからね。 肝心の虎嘯はと云えば、白を切るのが意外に上手く、その辺りの確証はいまだに掴めないのだが、二人が親しげに話し込んでいる姿なら何度か見かけたことがある。見上げるような大男の虎嘯が、自分の背丈の半分ほどしかない女に向ける笑顔を見れば、大方の察しはつくような気がした。 「珍しいね。こんなむさくるしい場所に来るなんて」 歩み寄ってきた女は、祥瓊を見上げて屈託なく笑う。青将軍はこちらだろうか、とためらいがちに尋ねると、女はあっさりと首を横に振った。 「将軍なら休暇中だよ。確か五日ほど留守にするって聞いたけど」 そうだったよね、と振り返った女に、兵卒たちが口々に同意を返す。 祥瓊は途方に暮れて立ち尽くした。――自分が知る限り、彼が休暇を取ったことなどこれまで一度もない。 「あの……用事や行き先については、何か聞いていない？」 必死の思いで尋ねると、女は軽く肩をすくめた。 「さあね。そこまでは知らない」
――――――――――――――――――――――――――
休日明けには、冢宰府から御璽を求める書状の束が上がってくる。それを受け取って内殿に届けるのが、祥瓊の役目だった。 その午後、文箱を抱えて書房の前まで来ると、中から明るい笑い声が響いてきた。 「はい、行き詰まり。また景麒の負けだ」 衝立越しにそっと窺ってみると、陽子と台輔が書卓を挟んで向かい合い、互いの手許を覗き込んでいるところだった。紐が絡んで動けなくなった台輔の手を見て、陽子がくすくす笑っている。 祥瓊の姿に気づくと、両者の片方は無言の目礼をよこし、もう片方はいたって気軽に手を振って見せた。 ――いったい何なのだろう。この長閑な風景は。 八つ当たりしそうになるのを堪えて、祥瓊は努めて穏やかに口を開く。 「冢宰府からの書状をお持ちしました。お目通しの上、問題がないようでしたら御璽を賜りたいとのことです。……ところで、何をしてるのか訊いてもいいかしら？」 もちろん、と陽子が頷く。 「あやとりをしているんだ」 「……何ですって？」 少しばかり目眩を覚えた祥瓊の前で、こちらにも蓬莱と同じ遊びがあるんだね、と陽子は屈託なく笑った。 輪にした紐を両手に掛けて、さまざまな形を作る手遊び――翻花。指を戟に見立てて糸を取り合うことから、指戟とも呼ばれている。 「この間、息抜きにしりとりを持ちかけたら、一方的な説教用語の羅列が返ってきてね。ほとほと懲りたから、今日はあやとりにしてみたんだ」 そうなの、と祥瓊は力なく相槌を打つ。 「意外なことに、景麒はこういうのが苦手らしい。さっきからすぐに行き詰まっては、紐をほどくのに苦労している」 これならどうやらわたしに分がありそうだから、と笑う陽子の向かい側で、台輔はそしらぬ風を装っている。だが、複雑怪奇に絡んだ手許を見る限り、陽子の言葉は図星らしかった。 ――台輔を甘く見ていると、今にしっぺ返しを食うわよ。 心中ひそかに呟きながら、祥瓊は方卓に書状を並べ始める。息抜きの目的は一通り達成したのか、陽子も居住まいを改めて書卓に向かった。 今日は台輔の補佐があるから、読み下しの手助けはいらないだろう。 そう思いながら堂扉に戻りかけて、祥瓊はふと足を止める。迷った挙句に振り返ると、不思議そうにこちらを見ている陽子と目が合った。 「どうかした？」 「いいえ、あの、桓魋は今朝も朝議に……？」 「いや。確か明日辺りまで休暇を取っているはずだけど」 あっさりと返されて、祥瓊は思わず両手を握り締める。 「もしかして、具合が悪いのかしら」 「具合って……桓魋の？」 きょとんとした陽子の顔を見て、祥瓊は慌てて言葉を濁した。 ――そういえば、虎嘯は穏便にって言ってたんだわ。
|
|
|