【前回のあらすじ】
　「電車内で人が読んでいる本を覗き見しない」というポリシーをぶち破って目に飛び込んできた、個人的英雄・漢の衛青の文字。書名を知りたくてやきもきするも叶わず、ホームから未練たっぷりに振り返ったとき、奇跡的に視界に入ったそのタイトルは…！！！



　オフィスに駆け込んでＰＣを立ち上げ、真っ先に検索して探し当てた小説の名は、
　「史記」（北方謙三・著／角川文庫・全七巻）。

　そもそもですね、この漢という時代からして、ものごっつ面白いのです。個人的に中国史でいちばん好きといっても過言ではない。司馬遷の歴史書をベースにしたこの小説でも、明暗併せ持った帝王・武帝を頂点に、それはもうたくさんの魅力的な人物が登場します。
　奴婢に等しい身分から取り立てられ、革新的な戦法で宿敵・匈奴を打ち破っていく衛青。「鑿空」とまで称された凄まじい旅を経て、西域への道を切り開いていく張騫。やがて台頭してくる若い世代には、今も名高い霍去病（ちょうど源義経のような人気があります）、悲運の将軍として知られる李陵（中島敦の小説で有名ですね）。その友人にして、匈奴への勅使に立った蘇武は、その後思わぬ形で彼と再開することになります。
　そして、個人的にはむしろ漢そのものよりも心を惹かれる匈奴の側にも、これまた非常に魅力的な頭屠という将軍が登場します。これは作者が創造した架空の人物なのですが、この人がいるおかげで匈奴が単なる蛮族ではなく、独自の文化と価値観を持った人々なのだということが、すごくよく分かるのですね。
　かつて放浪で何度も訪れた街や草原や山々の風景が、脳裏にあざやかに立ち上がってくるのを感じながら、寸暇を惜しんで全七巻を読み通しました。あーもう、ほんとに面白かった！　めちゃくちゃ面白かった！！
　…………のですが。

　野暮は承知で一つだけ、どうしても気になることがあるのです。
　作中の人物が、ことあるごとに「男らしく」、「男として」、「男の誇りをかけて」等々の台詞を口にするのですが、これ、話が途端にみみっちくなるので勘弁して頂きたい。

　あー、貴兄らが男性であることは分かっているので、念を押されずとも大丈夫です。極限状態で生き抜く厳しさは男でも女でも同じなので、成功や挫折をその点に帰結させる必要はないと思います。それとも何ですか、貴兄らのアイデンティティは股間にあるのか。そこ限定なのか。

　と、感動をぶち壊しにするような疑問を、蓬莱の名画師・日さまに打ち明けたところ、日さま笑っていわく、「そりゃしょーがないよ。作者はもともとハードボイルド小説の人なんだから」。
　あー、なるほど！　あの世界の半分は、硬派を装った甘えでできてるもんな！
　と、あさって方面に深く納得した次第だったのでした。


　……と、なにもかもをぶち壊しにするような紹介が一部ございましたが、この素晴らしく面白い小説への敬意を込めて、本日は前回新しくした正面玄関の風景、その全容をお届けしたく存じます。
　マドモアゼル方、サイトトップの写真をクリックなさって全体をご覧下さいませ。
　中国は西安、碑林博物館にある精緻な石画のひとつです。

　この一枚を含む一連の石画は、神々の世界を描いたもので、ここでは空一面に遊ぶ架空の妖獣たちの姿が描かれています。右下からは天蓋付きの車駕が駆け上ってきていて、騎乗している人物が弓矢を構え、中央のグリフィンにも似た獣に向かって、今にもそれを放とうとしています。
　画面全体に溢れる、この流れるような線と生き生きとした躍動感。ああ、何だか十二国記の世界を髣髴とさせるではないか…！としばし佇んでうっとりしたものです。

　……はい。さようでございます、マドモアゼル方。
　これは、「ここは十二国記の二次創作サイトだということをたまには思い出してみようではないかキャンペーン」の一画としてお届けするものでございます。平伏。



　という次第でして、愛するマドモアゼル方。
　例によって例のごとく、放浪麒麟は今年も秋の出奔に出かけて参ります。
　１０月１５日から２９日まで、放浪を堪能して参りたく存じます。締め切り前にお申し込み頂いた通販については、確認が取れ次第発送しておりますが、もし出発までに間に合わない場合には、帰国次第の手続きとなりますので、どうかご了承下さいませ。
　超大型台風に見舞われている三連休、今年はとみに天候がおかしくなっているのが気にかかって仕方ないのですが、皆さまがお住まいの地域がどうか何事もありませんよう、心から願っています。留守の間は美しい晴天に恵まれ、皆さまが秋を満喫できますよう、そして無事に帰山した暁にはまた元気よくモニター越しにご挨拶ができることを、今からとても楽しみにしておりますね。

　では愛するマドモアゼル方、今年も行って参りまーす！（大きく手を振りつつ）
　
　

　「本棚を見られることは、裸を見られることに等しい」と言われることがございます。
　そこに並んだラインナップから自分の趣味や嗜好を暴かれてしまうことを憚っての文言と思われるのですが、日頃からこの雑記で趣味や嗜好を暴露しまくっている身には、そんなもん今さらちゃんちゃらおかしいくらいのアレなのでございまして、しかしながらひとつだけ、固く守っているルールがございます。それは……
　「電車内で人が読んでいる本を覗き見しない」。

　どういう人がどんな本を読んでいるのか、興味がない訳では決してないのですが、そこは車中のこと。通常は固い学術書と向かい合っているおじさまが、ひとときの潤いを求めてフランス書院を読み耽っているかも知れない。今日一日の活力を求めて、きっちり着飾ったおねえさんがＢＬの世界に浸っているかも知れない。うっかり目にしたブツが、新書サイズを装った薄い本かも知れない。
　このように各人に諸事情もあろうかと、人様の読んでいる本には極力目を向けないようにしているのですが、その朝ばかりは違いました。

　朝のラッシュでぎゅうぎゅうの地下鉄内。吊り輪につかまって押された挙句、前に立つ人の背後に覆い被さるような姿勢となり、その人が手に持った本に鼻先を突っ込むような形になってしまったのです。そこに飛び込んできた、「衛青」の文字に、我が心臓は大きく高鳴りました。
　……衛青って、まさかあの衛青か？！　うっそ、しかも小説で？！

　以前、「歴史上の人物に会わせてあげようと言われたら誰を挙げるか」というお話をしたことがございます。そのときは真っ先に、十字軍と戦った英雄サラディンを挙げたのですが、実はもう一人、甲乙付けがたい候補がいました。それが漢の武帝に仕えた希代の名将、衛青です。

　貧しい羊飼いとして奴婢のように育ちながら、姉が皇帝の愛妾となった縁で軍人に引き立てられた衛青は、けれど、それが単なる贔屓でなかったことを示すように、次々と軍功を挙げて実力を証明していきます。帝国にとって長年悩みの種だった匈奴の軍勢を打ち破り、西域へと続く河西走廊の地域を確保したその功績。大出世を遂げた後も、政治向きには口を挟まず、常に謙虚で奢ることのなかったと言われるその人柄。
　……嗚呼。なんだかもう、問答無用で痺れる存在ではありませんか！

　しかしながら、知る限りでこの衛青に焦点を当てた小説というのがなく、彼のことを知りたければ、司馬遷の残した大部の歴史書を読むしかありませんでした。もちろんこれはこれで大変興味深いのですが、独特の硬い文章に疲れるのも確かです。
　そこへ振って湧いたこの僥倖！　すいません、書名を教えてもらえませんか！！

　と口に出せれば一挙に問題解決なのですが、不審者扱いされる可能性も９割強。本棚と裸を同一視する価値観に従えば、人様の本を覗き見る行為は痴漢と呼ばれても仕方ありません。
　知りたい。でも聞けない。位置的に表紙を見ることもできない。せめてページをめくるときにタイトルの手がかりだけでもつかめれば…ああ、もう駅に着いちゃうよ！（涙）

　人波に押し出されるようにしてホームに降りて、それでも諦め切れずに未練がましく車窓を振り返ったその瞬間。

　　　　　　　　　　　　　　　　見えた！　タイトル見えたよ！！


　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（以下次号）