セクエンツィア

―続 「自由、夜」―

　

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仁重殿の最奥にある景麒の居室は、すでに堂扉が閉ざされていた。

髪や袍についた雨滴を払った後、陽子は静かに扉を叩く。

返事がなくても、彼がそこにいることは分かっていた。二呼吸ほどの間隔をおいて扉を押すと、衝立の彫り込みを透かして金色の髪が垣間見える。

その先へ踏み出すには、もう一呼吸が必要だった。

誰が来たのかは分かっていたはずなのに、陽子が衝立の陰から姿を現しても、景麒は顔を上げようとしなかった。

「――夜遅くに済まない。少しだけ、いいだろうか」

声をかけると、景麒は機械的に立ち上がろうとした。

陽子は手を上げてそれを留め、彼と向かい合う書卓ではなく、その反対にある窓の縁に腰を下ろす。

去年の夏までは、用事ができたときにはいつも正寝から園林を抜けて、この窓の下に立った。声をかけるより先に窓は開き、景麒はいつでも呆れたような表情でため息をつきながら、それでも手をさし出して、陽子を堂室の中に引き上げてくれた。――今はその同じ部屋の中にいるのに。

強くなっていく雨音に耳を傾けながら、陽子は玻璃に映った影を通して、なかば背を向けたままの景麒を見つめる。

ここにいるのは王と麒麟だ。

それ以上でも以下でもないと自分に言い聞かせ、陽子は口を開く。

「さっき浩瀚が報せに来てくれた。問題の州侯が、国府と話し合いたいと望んでいるそうだ。――わたしが自分で行くことにした。遠甫も同行してくれる」

ここへ来るまでに、どう切り出すかは決めてあった。返事を必要としない言葉が、必要以上に冷たく聞こえないように祈りながら、陽子は窓に映る影に向かって続ける。

「多分、明後日にはこちらを発つことになるはずだ。明日の朝議には出るけれど、今回は禁軍を連れて行けと浩瀚が言っている。おまえには辛い話にならないとも限らないから、明日は無理して来なくてもいい」

一息にそう言った後、陽子は軽く息を吐いた。――ありがたいことに、そういう展開になる可能性はとても低いけれど。

「義倉を開き、他州の備蓄分を虚海側へ送ることで当面は収まりそうだ。本当は各州の自治権から考えても避けるべきなんだろうけれど。根本的な問題が解決したわけじゃないし、これから時間をかけて辛い決断もしなくてはならないと思う。景麒が反対していた課税の件も、いずれまた話し合わなくてはいけない」

「……話し合いが成功するという保証は」

この夜初めて聞く声なのに、やはり懸念を含む疑問形だったことがどこか可笑しくて、陽子はかすかに笑う。

「そればかりはやってみないと。いくら誠意と言葉を尽くしても、届かないものはあるから」

誠意、と、まるで異国の言葉を呟くように、乾いた声がくり返す。

膝の上に置いた手に目をやって、陽子は静かに続けた。

「わたしとおまえは、本当は違う言語で喋っている。神籍にあるから意思の疎通に不自由しないだけで、別々の言葉を口にしているんだ。――それと同じことだよ。どこまで行っても、人は完全に互いを理解することはできない。多分、その必要もないんだと思う」

やがて抑揚に欠ける声で、陽子の半身は答えた。

「――それはとても、寂しいことです」

「そうだね。だからあらゆる手を尽くして、人は誰かと繋がろうとするのかも知れない」

――届かないかも知れないと怖れながら、こんなふうに言葉を尽くして。

手持ちの言葉は、これですべてだった。

陽子はゆっくりと頭を垂れ、返っては来ないかも知れない答えを待つ。

窓に触れた肩先から伝わる冷たさが、身体の芯を抜けて足元へ落ちていくのが分かった。

長い無言の後、顔を背けたまま、景麒は呟く。――承知いたしました。

その低い声を、ある種の救いのように陽子は聞いた。

「これ以上異論は申し上げません。ですが、これだけはご理解下さい。長い荒廃の後でようやく取り戻した生活の安定は、民にとっては何にも代え難いものです。何かを変えようとなさるなら、その民の不安を煽らずに済む方法をお考え下さい。性急に過ぎる変革は、結局主上の目指されるものへの足枷となってしまうでしょう」

少し考えるように沈黙した後、陽子は素直に頷く。

「……ありがとう。覚えておく」

必要な話はこれですべて済んだはずだった。

けれど陽子は窓辺に座ったまま立ち上がろうとはせず、景麒もまた動こうとはしなかった。

背中に当たる冷たい玻璃の感触の向こうで、止む気配のない雨音が続いている。

――景麒。

手をのばして触れることができたら、どんなにいいだろうと陽子は思った。

こんなふうに不毛な言葉を尽くすのではなく、その首筋の温かさを頬に感じながら、回される腕の中に身体を預けることができたら。

そうすれば、こんなに苦しい思いをしなくて済むかも知れないのに。

堪えかねたように視線を外した陽子と入れ替わるように、景麒はゆっくりと顔を上げた。

「――他にも何か、言いに来られたのでは」

これほど穏やかな彼の声を聞くのは久しぶりだった。陽子は思わず声を詰まらせる。

その様子をしばらく見守った後、景麒はほとんど優しさと同化した深い疲労の籠る声で、陽子を呼んだ。――あなたが。

「もう長い間迷っておられることは、知っていました。何を迷われているのかも、おそらく。――けれど、どのような選択をなさるにしろ、あなたご自身の口からそれを聞きたい。それがわたしにとって、どれほど辛い決断だとしても」

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