セクエンツィア

―続 「自由、夜」―

　

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真っ直ぐにこちらに向けられた濃紫の瞳は、幾分かの翳りを内包してなお静かだった。長い時間をかけて準備されたと分かる、その言葉と同じように。

――いつだったか、書卓から持ち上げようと思った手元が狂い、茶器を落としてしまったことがある。無傷に見えた白磁の表面は、陽子が手に取ろうとした途端、内側からひび割れて床に落ちた。

景麒の目を見返しながら、陽子がそのとき思い出したのは、形あるものが失われようとするあの瞬間の感触だった。

こんなに夜遅く、それでもここまで来なくてはならないと思ったのは何故なのか、ようやく分かったような気がした。――答えなら、最初からここにあったからだ。

かつて泰麒の捜索に費やした夏、天もまた無謬ではないと知った。人が叫ぶ、どれほど切実な問いかけにも沈黙を守り、決して答えることのない存在。

その天が、王に麒麟を与えたのだ。

すべての被造物は、生まれ落ちた瞬間に造物主の手を離れる。たとえ天が何を望まないとしても、漠然とした怖れに負けて、自分のものを手離す従順さなど持ち合わせていないと陽子は思う。――あの夏と同じように。

今ここで言葉を間違えば、割れた白磁と同じものを目にすることになるだろう。それは多分、自分の心をも砕いてしまうに違いない。

ああ、と声には出さず、陽子は呟く。――だとしたら。

何と引き換えにするつもりもない。

わたしが欲しいのは、わたしの半身なんだ。

「……何も」

陽子は静かに答えた。

「何もないよ。言うべきことがあるとすれば、何も変わらないということだけだ」

――わたしたちがこうあることも含めて、何ひとつ。

それを聞いた景麒は何も言わずに顔を背け、円卓についた片手で顔を覆った。

その指の間から零れる、震えるようなため息を聞きながら、陽子は初めて理解した。――この麒麟は最初から、主の迷いに対する答えを持っていたのだ。

これが禁忌なのだとしたら、麒麟という生き物がその領域へ踏み込めるはずがなかった。そのこと自体が、すでに答えになっていたのに。

たとえ天が意図したところからどんなに外れていようと、王と麒麟の恋が天の関知し得る範疇にはないのだと――おそらくは予王との間にあったことを通して、景麒は知っていた。知っていながら、その答えをさし出すことができなかったのだ。

その理由は、聞かなくても分かるような気がした。

「それが、あなたの選択ですか」

そう、とだけ陽子は答える。――おまえはどうなの、景麒。

問いの意味が分からないというように、景麒はぎこちなく首を横に振った。

「……麒麟に選択の自由などありません」

「おまえは自由だよ、景麒。わたしが与えたからではなく、生まれながらに誰もがそうであるように――心において。だからおまえは好きなことを、自由に望んでいいんだ」

笑おうとするかのように息を吐いた景麒は、けれど再びゆるく顔を背けた。

「……他のどの国を探しても、麒麟に向かっておまえは自由だという王などいないでしょう」

窓辺を離れ、景麒の座る椅子の脇に立つと、陽子は注意深くその背に手を添える。いつもは端整な肩の輪郭が、かすかな歪みを見せていた。

途切れがちな声で彼は呟く。――世界の誰ひとりとして、麒麟の恋など望んではいないのに。

「おまえは、誰かが望むから、何かをするの」

「麒麟は天意の器です。天が望み、民が欲するものに従うだけのこと」

「……すぐそういう言い方をするんだね、おまえは」

陽子は小さく笑って金色の髪を梳いた。柔らかい感触が指の間を通り抜けていく。

「――後悔している？」

「後悔ではない。怖れているだけです」

「……景麒」

「あなたにはお分かりにならないでしょう。わたしが何を怖れているのか」

持ち得る言葉の中で最良のものを探し当てようとしながら、陽子は慎重に言葉をつなぐ。

「麒麟に対する王の恋だって、誰も望んでいない。でもわたしたち自身が、互いのためにそれを望むんだ。――それでいいとは思わないか」

手に触れる彼の背は硬かった。

「どんな天綱も、人の心を縛ることはできない。……王として力を尽くすことに、今までもこれからも変わりはない。でもそれは、すべての判断を天にゆだねることとは違う。わたしの心は、わたし自身のものだ。これが過ちだと云うのなら、天はわたしではなく、別の王を選ぶべきなんだ」

王として迷わずにあることと、人として自分を失わずにいることは、結局同じことなのだと陽子は思う。――その両方を結び合わせ、碇のように繋ぎ止めてくれる存在を、わたしはおまえ以外には知らないのだと。

だが、返ってきた声は鋭かった。

「それはわたしに新しい主を選べと云うことか。あなたに何かあれば、即座に三度目の王を選んで然るべきだと」

その夜初めて正面から陽子を見つめ、わたしがそんなことを望んでいるとでもお思いか、と言った口調の底には峻烈な響きがあった。

「誠実であろうとするならやり方を間違えるなと、いつかあなたは言われた。――同じことを今、わたしがあなたに申し上げます」

そうだ、この麒麟は確かにこうした気性の持ち主だった――正しいと思うことを曲げようとしない、ある意味で譲歩を知らない頑なさ。

それは陽子自身の一部にも、よく似ているように思えた。

「あなたは王であり、わたしの主です。それ以上に、わたしにとってあなたの代わりなどいないことが、どうしてお分かりにならない。――選べと仰るなら、あの夜すでにわたしはあなたを望み、今に至るまでそこから身をもぎ離したいと思ったことは一度もありません。わたしをあなたから切り離すものがあるとすれば、それはあなたご自身の手しかないのに」

人であることは、時としてあまりに不確かだと景麒は呟いた。――こういうときに信じられるのは、わたしとあなたが王と麒麟であるという事実だけです。時に枷だと感じるそれが、唯一の絆のように思えることがある。

――ですから。

敬虔にすら見える仕草で、景麒は深く頭を垂れる。

「わたしの前でそういう言い方だけは、どうか――お止め下さい」

窓の外では、雨が強くなり始めたようだった。

陽子は黙ったまま、彫刻のように静止した美しい生き物を見つめる。

他にどんな言葉があるとしても、それを敢えて口にすることで、もうこれ以上彼を傷つけたくはなかった。

おそらくすべての生き物には、傷つけても許される部分と、そうでない部分があるのだろう。そして自分が損なってしまったのは、景麒の持つ後者のどこかだったのだと陽子は気づいた。

――せめてわたしがもう少し器用だったら。そうしたら、同じ真実をもっと違った形で、おまえに手渡すことができるのに。

静かに手をのばし、胸の高さにあるその頭を抱き取ると、陽子は冷たい金色の髪に頬を寄せて囁く。

「わたしが、悪かった……」

彼の肩からゆっくりとほどけるように力が抜け、やがてその腕が陽子の身体へと回された。

思わず安堵のため息をつこうとして、陽子はかすかな違和感を覚える。

景麒の腕はいつもどこかに余白を残すようなやり方で陽子を包む。それは陽子にとって安息でもあり、時にもどかしさでもあったのだが、今はその余白がどこにも感じられなかった。

その表情を確かめようと陽子が身を引きかけたとき、腕の中で静かな声が言った。

「――今夜は、ここにおいで下さい」

陽子は軽く息を呑む。だが、回された腕の力が緩む気配はなかった。

ややあって、半ば疑うような口調で陽子は尋ねる。

「それは……仁重殿に、ということだろうか」

これまでも急な政務が深夜にまで及んだようなとき、何度か仁重殿に泊まったことはある。けれど陽子は必ず別に臥室を用意させたし、正寝にはきちんと使いを出して、所在を明らかにしてあった。稀に景麒が正寝に留まらなくてはならない用事ができたときにも、それは同じだった。

その後、誰もが寝静まった夜更けに身体を重ねたとしても、それを悟られるような振舞いを互いに許したことはない。

だがその知らせも出さず、台輔の臥室から王が朝まで姿を見せなかったとなれば、話は別だった。どんなに気の利かない者でも、何かを思わずにはいられないだろう。

景麒もまさか、そういうつもりで言っているのではないだろうと陽子は思う。

けれど陽子の袍に額を押し当てたまま、景麒は低く、いいえ、と答えた。――ここにおいで下さい。

「……わたしの臥室に」

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