蓬山でひと夏を過ごした景麒が、金波宮に帰還した年の終わりのことだった。

一時は台輔との対面すら避けていた舒覚が、彼の傍らで次第に笑顔を見せるようになった頃、舒栄は堯天を去った。

夕暮れの仁重殿に姿を現した舒栄からそう告げられたとき、景麒は一瞬言葉を返すことができなかった。

「あなたにしてみれば、もっと早く出て行って欲しかった、と云ったところでしょうけれど」

舒栄はそう言って、形ばかりの微笑を浮かべた。

「征州へ行くつもり。――州侯は嫌な男だけれど、気前だけはいいらしいわ。維龍は厭だと言ってやったら、海の傍に城をくれるそうだから」

無言でそれを聞いていた景麒は、筆を置くと静かに訊ねた。主上はそれをご存じなのか、と。

髪の先を弄びながら、舒栄は肩をすくめる。

「さあ。今の姉なら、引き止めたりしないことは確かね」

真意が掴めず、眉をひそめた景麒に向かって、舒栄はひらりと手を振って見せた。

「わたしが王宮に留まることを承知したのは、仙籍をさし出されたからだと思った？　そうじゃないわ。――そんなもの、束縛以外の何だって云うの。物心ついた頃から、わたしは何かに縛られることがいちばん嫌いだった」

やや荒々しい仕草で肩にかかった髪をはね退けると、舒栄は冷ややかな口調で続けた。

「そのわたしに向かって、姉は言ったの。――お願いよ、花麗、わたしをここで独りにしないでちょうだい――ああやって泣きながら頼まれて断れなかったのは、もう何度目の話かしら」

これまでただの一度も、この王妹に親しみを感じたことはない。この先どれほど時を重ねても、心を許す必要も可能性も、生じようのない相手だった。

にもかかわらず、舒栄の言葉を遮ることができなかったのは、その底には真実の断片が含まれていると、彼の本能が教えていたからだ。

「大人しそうに見える人間は大抵そうだけれど、姉はとても意志の強い人よ。欲しいものを得るためなら、矜持なんて簡単に捨てられる人だわ」

突き放した声でそう言った後、彼女は自嘲するように付け足した。――誰かの哀れみを受けるくらいなら死んだ方がましだと、わたしなら思うけれど。

「王宮に残るのは仙籍のためじゃなく、贅沢がしたいからでもない。こんなところまで来て、周りに冷たくされている姉さんを哀れだと思うから、それだけよ――面と向かってそう言ったのに、あの人、ありがとう、ですって」

言葉を切った舒栄は、そのまま長い間暮れていく窓の外を眺めていたが、やがて無表情に呟いた。

――だからわたしはいつも、心底姉を軽蔑していた。

女官が捧げ持ってきた茶器をそっけなく断ると、舒栄は来たときと同じように唐突に立ち上がった。景麒もそれを引き止めなかった。

けれど堂扉の前で足を止め、振り返った舒栄は強い視線を景麒に投げた。

「今の姉にとって、わたしはもう用済みなの。だからわたしはここを出て行くけれど、最後にひとつだけ、あなたに言っておきたいことがある」

恐ろしいほど静かな、その後長く忘れられなくなる声だった。

「賭けてもいい。――姉はこの先、あなたしか見なくなるわ」

開港式とそれに伴う数々の行事を終え、長く思われた征州での滞在もようやく終わろうとしていた。

明日の早朝には尭天へ出立するという夜だった。

堂室を整えに来た女官長に、香が少し強いようだが、と景麒が声をかけると、女官長は恐縮した様子で香炉を下げさせた。――申し訳ございません。すっかり慣れてしまっておりましたもので。

やはり、と声に出して呟く代わりに、景麒は夜の窓を見やる。霧とも闇ともつかない暗がりは、わずかな圧迫感を伴う密度のせいで、ようやく深い霧だと知れた。

こうした日の翌朝には、霧はすっかり晴れるものなのだと、女官長は慰めるように言い添えた。――明朝のご出立には、何の差し障りもございませんとも。

窓の外から視線を戻し、景麒は真っ直ぐに女官長を見つめた。

おそらく最初から、こう訊ねるべきだったのだ。

「この城は以前、誰が使っていた」

女官長の顔色が、それと分かるほどに青ざめた。

言葉を捜そうと狼狽するその表情を見ながら、景麒は自分の推測が正しかったことを知った。――この薫りに慣れてしまうほど長く城にいる者が、それを知らないはずがない。

「それはもちろん禁苑ですから、王の……」

それでも動かない景麒の視線に根負けしたように、女官長はその場に跪いた。――どうかお許し下さい。

「禁苑とはいえ、あの頃は国府の目も届かないほどに国全体が乱れておりました。不敬とは知りながら、先の征州侯がこちらを私邸のようにお使いになるのを、わたくしどももお止めすることができず……そのご縁で、先王の妹君も……」

震える声を切って、女官長は深々と平伏した。

「……あの折は、この城に長く滞在なさっておいででした」

――最後に舒栄を見たのは、征州城の地下牢だった。

「また逢うとは、思ってもみなかったでしょうね」

裳裾が汚れるのを気にするでもなく、無造作に膝を突いた舒栄は、獣形に閉じ込められた景麒の目を覗き込んでそう言った。

言葉を奪われたままの彼も、今や王の名を騙る逆賊となった女を無言で見返す。

「巧から報せが来たときはまさかと思ったのに、やはり蓬莱へ渡っていたのね。今度の王は胎果、しかもほんの少女だと聞いたけれど。――同じことよ、台輔」

岩壁にさし込まれた松明が、かすかに弾けるような音を立てた。

「天は徹頭徹尾、姉には向かないことを姉に強いた。そこから逃げようとして自滅していく姉を止められなかったのは、台輔、あなただわ。――姉のような人間が玉座に座ったのは、天でさえ間違いを犯すという証拠だった。その天が造ったものなら、人も麒麟も同じように不完全だという前提を、あなたは考慮に入れなかった」

そうである以上同じことなのよ、と舒栄は静かな表情でくり返した。

「それを学ばない限り、あなたは何度でも王を失うことになる」

胸の奥深くに喰い込むような言葉だった。

たとえ声を発することが可能だったとしても、反論の余地はなかっただろう。かつては間違いなく天が定めた主を、彼は永遠に失ったのだ。

迷いのない動作で立ち上がった舒栄は、鎖につながれた麒麟を真っ直ぐに見下ろした。

「けれど、あなたが何故姉を愛さなかったのか、それだけは分かるような気がする。だからあなたにはもう何も望まないし、奇蹟を当てにしようとも思わないわ。――完全ではない天が、偽王をどう罰するのか、わたしは見たい」

そうして薄闇の中、彼女の口元にゆっくりとあの優雅な微笑が広がってゆくのを、景麒は確かに見たのだった。

「それに、わたし以外の誰がこんなことをしてくれるというの」

――天への復讐なんて。