……麒。――景麒。

浅い眠りの底から彼の意識をすくい上げたのは、肩に触れた手の感触だった。

ゆっくりと目を開くと、かすかな懸念を湛えた緑色の瞳が近々と彼を見つめていた。

目覚めると同時に寒さを覚えたのが分かったのだろう。少女の手が錦布を引き寄せて、並んで横たわる二つの身体を覆う。

見慣れた牀榻の中だった。

ああ、では帰ってきたのだ……と深く息を吐くと、少女の顔には翳りが生まれた。

――どうかしたのか。

夢を見たのです、と言いながら、彼は赤い髪へと手をさしのべる。

――夢？

――ええ。

――それはどんな……？

のばした手は、確かに彼女に触れたはずだった。

けれどその指のわずか先で、少女の輪郭はざらりと崩れた。

肌が粟立つような感触とともに、景麒は反射的に身体を起こす。

だが、それも遅かった。

次の瞬間、陽子の身体は奇妙に捩れ、無数の破片となって闇の中に砕け散った。

絶望的な失墜の感覚が身体を貫くのと、呼吸を取り戻したのは、ほぼ同時だった。

弾かれたように起き上がった後、そこが仁重殿の自室だと――あの海辺の城を離れて王宮へと、自分はすでに戻っていたのだとようやく理解するまでには、恐ろしく長い時間がかかった気がした。

王宮に帰還したのは、日没の後だった。

そして今は深夜、静まり返った堂室の床には、凍りつくような冬の月光が落ちている。

重苦しく鼓動する心臓を鎮めようと息を吐くと、反射的に軽い吐き気が込み上げた。

どうして夢は――ある種の夢は、醒めてからもなお現実を凌ぐ力で心を捕らえ、離してはくれないのだろう。

――それを学ばない限り、あなたは何度でも王を失うことになる。

そう告げた夢と共鳴するように、遠く柔らかなもうひとつの声が重なる。

――愛しい人。あなたはやがて、次の王を選ぶでしょう。

先王の最後の言葉が、永遠の別れを暗示することは分かっていた。

それでも世界から王気が消えたと知ったあの初夏の夜まで、彼は自分が独り残されるとは信じていなかったのだ。

のろのろと持ち上げた両手の中に、景麒は顔を埋める。

暗闇の中、これ以上独りでいることには耐えられそうになかった。

◆　　　　　　　　　　　　　　◆　　　　　　　　　　　　　　◆

深夜の正寝は、ひっそりと暗闇に包まれていた。

木立ちの合い間から目にした主の臥室には、まだ仄かな灯りが残っていた。薄暗い玻璃窓の向こうで、人影が遠く行き来しているのが分かる。

袍を羽織っただけの身体が冷えていくのと反比例して、夢の続きの奇妙な浮遊感は増していくように思えた。

――もう少し近づけば、それも消えてくれるだろうか。

木立ちから足を踏み出すのと同時に、堂室の中で最後の灯りが消えた。

気づいて欲しかったわけではない。

ただ壁ひとつを隔てたこの窓の下で、彼女は確かにここにいるのだと、時間をかけて自分を納得させたかっただけだ。

けれど、かすかな音ともに頭上の窓が開き、夜の中で静かな声が自分の名を呼んだとき、景麒は信じがたいものを聞いたように息を止めた。

「……どうした、そんなところで」

ようやく顔を上げた視線の先にいたのは、確かに陽子だった。

蔭になった表情までは判然としなかったが、その声に驚きの色はない。

もう眠るところだったのだろう。窓から身を乗り出すように手をさしのべた肩からは、ほどいた髪がゆるやかにこぼれ落ちていた。――そこは寒いだろう。上がっておいで。

何故、と問いかける代わりに、景麒はさしのべられた手を凝然と見つめる。

今見ているこれが、夢でないという証拠はどこにもなかった。触れた瞬間、この手が崩れないという保証がどこにあるだろう。

――あの夢のように。

その怖れは氷のような冷たさで心に突き刺さり、彼の手から体温を奪った。

窓枠を乗り越えて降り立った暗い堂室の中、何も知らずに彼を見上げた緑の瞳は、無防備で柔らかかった。

「何かあったのか」

「――夢を見たので」

「……夢？」

それはどんな、と訊ねる夢と同じ声を遮りたいがために、景麒はとっさに手をのばして陽子を抱き寄せる。

重く長い夢を経て、彼の腕に収まったその身体は温かい存在感を備え、確かに生きて呼吸していた。

気の遠くなるような安堵とともに力を抜くと、それを支え切れずに陽子が膝を崩すのが分かった。

――冷え切った手と心は、安堵の反動に熱を求める。

後ろに突こうとした陽子の手を払い、床の上へと重なるように倒れ込みながら、自分が何をしようとしているのか、彼もすでに悟っていた。

広がった赤い髪の中に組み敷かれたまま、陽子は瞬きもせずに彼を見上げている。

静かな頬に触れ、何度もその輪郭を確かめながら、彼はほとんど嘆願のように囁いた。

「……抵抗ぐらい、なさって下さい」

卑怯な言い方だと分かっていた。存在の根底を最初から他者に明け渡すような麒麟という在り方が、胎果の彼女には、時に痛ましく映ることさえあるのだと知ってもいる。

それでも答えが聞きたかった。

こんな理不尽なやり方で求められても、あなたはわたしを拒まないのか、と。

「……しないよ」

その静かな答えよりわずかに早く、二つの腕が彼を抱いた。

帷の蔭では見えるはずなどないのに、それでも唇が震えたのを悟られまいと、景麒はきつく主の身体を抱きしめる。

その抱擁のあまりの強さに、陽子が一瞬息を止めるのが分かった。