自由、夜
【２】
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陽子はしばらく何も言わなかった。 ややあって、硬い表情の景麒を見つめたまま、ゆっくりと口を開く。 「今さら、とは思うが……いちおう理由を聞いておく」 景麒は深く息をつき、顔を伏せる。ひとつだけ残してある箱提の灯りが、その表情に複雑な翳りを生んだ。 「忙しい政務の合間を縫って、毎夏、廟を詣でて頂いていることには、わたしも感謝しております。失政をどのように責められても無理のないところを、主上はそうして亡き者にまで心を配ってくださる。――ですが、もう充分です。過ぎたことは過ぎたこととして、どうかご放念頂くわけには参りませんか」 無言で聞いていた陽子は、書卓に向き直ると、先ほどまで地図を押さえていた文鎮を手の中で転がした。 「――わたしは、自分がしたいからそうしているだけだ。景麒の感謝が欲しいからでもないし、周囲に気を遣っているからでもない」 それきり、ふっつりと会話は途絶えた。 ため息を押し殺し、陽子は沈黙に耐える。――もう、出て行ってくれないだろうか。 とうとうそう口にしようとしたとき、景麒が再び顔を上げた。 それは陽子をもういちど凍りつかせるのに充分な言葉だった。 「――先王について、わたし自身の口から、主上にお話しした方がいいのではないかと」
◆ ◆ ◆
掌を握りしめて数呼吸を耐えた後、陽子は大きく息を吐いた。 「――必要ない」 「ですが、主上にはどうしてもお分かり頂きたいことが」 「聞きたくないと言っている！」 陽子は手の中の玉石を書卓に叩きつけた。 「予王のことをわたしに話して、それでどうする。同じ間違いをするなとでも言うつもりか？ だったら余計なお世話だ。麒麟は神獣、人の思いに応えることができないことくらい、わたしでも知っている」 このやりどころのない感情が嫉妬ではないと、断言はできた。――予王は、もうひとりの自分だ。同じところへ踏み込もうとしている、自分の影のようなものだった。どうして嫉妬などできるだろう。 だからこそ景麒の口から彼女のことを聞きたくないのだと、陽子は思った。 景麒が冷ややかな口調で予王を責めれば、それは陽子自身に対する断罪となる。彼が他人事のような無機質な言葉で予王を語れば、それは陽子へ向けられた無関心をも意味する。――けれどもし彼の声に、いまだ熾き火のように残る予王への思慕があったとしたら。 「誠実であろうとするのは結構だ。――だがやり方を間違えるな」 そう言い放つなり、陽子は堂扉に向かって身を翻した。 ――おまえが出て行かないなら、わたしが出て行く。 景麒の脇をすり抜けようとした腕を、その手が強い力で掴んだ。 「わたしが申し上げたいのは、そんなことではございません」 珍しく急くような口調で言い、景麒は陽子の肩を押さえた。 「ご自分が毎夏、どのような顔をしてあの祠廟からお戻りになっているか、主上はご存じか。まるで奈落を覗いて来られたような顔をしておられる。――しかもここ数年は、班渠すらお連れにならない。わたしに何も分からないとでも、思っておいででしたか」 陽子は俯き、震える足元を踏みしめた。――やめてくれ、お願いだから。 けれど景麒は手を離そうとはしなかった。 「先王については何一つ、主上はわたしにお尋ねになったことがない。なのに毎夏欠かさず、廟に詣でておられる。――何か気にかかることがおありなら、わたしにお聞きになればよろしいのです。主上がそうなさらないからこそ、わたしから申し上げた方がよろしいかと伺った」 「――どうして」 疑問形を口にしながら、本当に訊きたいのは理由ではなかった。 自分が知りたいのは、あらゆる言い訳の向こうにある、自分たちが決してふれようとしなかった何かなのだと陽子は思う。――景麒。おまえがわたしをここまで追いつめた。 ようやく押し出した声は、やはりかすれていた。 「どうして、そんなことを言う」 耐え切れないほど長い沈黙があった。 やがて肩を掴む手の力が緩み、景麒はゆっくりと顔を背けた。 「――王を案じぬ麒麟はおりません」 ああ、と呟いて、陽子は目を閉じる。軽い目眩とともに、身体が冷えていくのがわかった。――やっぱり、それがおまえの答えなんだ。 「だったらそれでいい。麒麟に案じてもらうほどのことではない。これはわたし個人の問題だから」 「――主上」 迷うように伸ばされたその手を、陽子は今度こそ力いっぱい振り払った。 「わたしは王で、おまえは麒麟だ。わたしの傍にいるのも、わたしの身を気遣うのも、すべてがそのためだ。よい王であれとおまえは言う。そうでないわたしには何の価値もないからだ。おまえに必要なのは王の器だけ――王と呼ばれる存在だけなんだ」 ――なんて莫迦なことを口走っているのだろう。 あまりの醜悪さに吐き気すら覚える。意のままにならない自分の心を、そしてこういう場面に自分を追い込んだ景麒を、陽子はそのとき心から呪った。 紫色の瞳に、初めて険しい色が混じった。 「――そのようにお考えだったのか」 「違うのか？ 違わないだろう。おまえは麒麟だから――それ以外のものにはなれず、人の心も持たない、哀れな生き物なんだから」 引き攣るような笑いがこぼれて、陽子は顔を背ける。いちばん卑怯な言い方をしているという自覚はあった。本来天秤にかけられるはずのない二つのものを、自分はわざと混同して麒麟に突きつけている。 強く手首を掴まれて、陽子は反射的に顔を上げる。青ざめた景麒の顔が、思いがけないほど近くにあった。 「本当に――心底そのようにお考えか」 吐き捨てるように言われて、陽子の頬が紅潮する。 「――離せ」 「真実そうお考えなのかとお聞きしている！」 「離せと言っているのが、分からないのか！」 ぶつかり合った声とともに、もぎ離そうとした手を強く引かれて、陽子は思わず姿勢を崩す。 肩を掴まれて壁に押しつけられ、視界が翳ったと思った途端、冷たいものが唇を塞いだ。 もたらされた空白は、長いようにも短いようにも感じられた。 「――王が真実命じれば、麒麟は逆らえない」 唇をわずかに離して、景麒が言う。怒りを抑えつけているような低い声だった。――ああ、以前にはよく景麒のこういう口調を耳にしたと、陽子は思い出す。たとえば蓬莱に自分を迎えに来たとき、彼はこんな口調で自分の無力さを責めたのではなかったか。 手首をつかむ指に力が加わったが、痛みを感じる余裕はなかった。 「そうお考えならば、何故お命じにならない。――わたしが案じるべきは王ではなく、あなた自身だと」 「人の心に何かを命じることはできない」 自分でも驚くような薄い笑いが口元に浮かんだ。――自分の心でさえ、ままならないというのに。 「――そんなことができれば、とっくにそうしている」 ばかなことを、と、やはり吐き捨てるようにその声が呟く。 ――ああ、もうだめだ……。 これ以上聞きたくないと思った瞬間、意に反して身体は動いた。 金色の髪を引き寄せると、陽子は自分からその薄い唇を塞ぐ。 声と同じように冷たいその手が、強く身体に回されたのを感じて、陽子は景麒の襟元に手をかけると、力を込めてそれを引き千切った。
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