自由、夜　【３】

自由、夜

【３】

床の上に落ちた袍や帯の中にもつれあうように倒れ込んで、もういちど唇を重ねる。景麒の腕の中に抱き込まれた自分の身体が、いくどか断続的に震えるのを陽子は感じた。

優しく扱われることを望んだ訳ではない。石の床に押しつけられた肩や腰が軋むたび、陽子は奇妙な喜びを覚えた。降りてゆく手のその冷たさが、肌の粟立つほど心地よかった。

ただ身体を重ねるだけのことが、これほどの歓びを生むとは想像したこともなかった。――たとえ、自分に分け与える心を持たない相手だとしても。それでもこれが欲しかった。

そんな自分を浅ましいと思いながらも、重なった身体を抱きしめずにいることはできない。泣かずにいるのが精一杯だった。涙など見せれば、今度こそ景麒は心底自分を軽蔑するだろう。

顔を見なくてすむように、その背中に腕を回して引き寄せると、金色の髪が視界を覆った。かすれた声が初めて唇を漏れた。

やがてすべての痛みがぎこちない快楽に変わり始めた頃、景麒は動きを止めて陽子を見た。

何かを堪えるような眼には、さまざまな感情が判別しがたく混ざり合っていて、一瞬陽子は怯む。――どうしてこんな目を。

そう思ったとき、低い声が耳を打った。

――何故、そうお命じにならなかったのです。

陽子は軽く目を瞠った。

袍の上に投げ出された陽子の手を取り、景麒は唇を押し当てる。こちらに来たばかりの頃、巧国の山中で負い、碧双珠でも消すことのできなかった傷痕が、そこには残っていた。

取った手を自分の背に回し、陽子の顔にかかった髪を丁寧に払うと、景麒はあらわになったその頬に触れた。――まるで水の中から珠をすくい上げるように。

答えようとしても、乾いた喉からは声は容易に出てこなかった。景麒が耳を傾けるように上体を屈める。

――そう命じられるのを、おまえは待っていたの？

陽子を見返した瞳の深い紫色が、かすかに揺れた。多分それが答えだったのだろう。

背に回した手に少し力を込めると、視界が再び金色の影に覆われる。形容しがたい感覚に背が撓んだ。――それから後のことは、よく覚えていない。

◆ ◆ ◆

荒い息遣いがおさまるまでには、長い時間がかかったような気がした。

最初に目に入ったのは、床の上に投げ出された自分の腕だった。目の前に引き寄せると、指には金色の髪が絡まっていて、それを視線で辿っていくと、こちらを見つめている紫色の瞳と目が合った。つくりものめいて長い、その睫毛までが金色なのが何故かおかしくて、陽子は小さく笑った。

「――生きてたんだ」

手の中の髪は柔らかく、人の髪というよりはしなやかな獣の手触りによく似ていて、ああ、これは麒麟だったのだと陽子はため息をつく。――こうしたことの後でも、彼は麒麟なのだと。

身体のどこかが壊れたような感覚を引きずったまま、陽子は億劫げに口を開く。

「麒麟はほんとうに優しい獣だね。王が求めればこんなことにまでつきあって、おまけに嘘までついてくれる」

――そう、これを望んだのはわたしだ。おまえじゃない。

景麒は返事をしなかったが、淡い灯りの下で、その肩の輪郭がこわばるのがわかった。

奇妙な、残酷な衝動に駆られていた。自分の言葉が彼を傷つけているのはわかっている。それでも黙って見つめられているよりはましだと思った。

長い沈黙に耐え切れなくなったとき、その手が頬に触れて、陽子はびくりと身体を引いた。

「――もう、おやめください」

辛い、という感情を音にすれば、こんなふうに聞こえるのではないかと思われるような声だった。

「わたしの言葉を信じられないのなら、それでいい。けれどご自身を貶めようとするのは、どうかおやめください」

そう言いながら、その指先が頬を拭う。そうされて初めて、陽子は自分が泣いていたことに気づいた。――だから半身は困るんだ。陽子はなおも涙をこぼしながら笑う。

傷つけようとすると、自分が傷つく。ついた嘘はそのままはね返ってきてしまう。

深くゆっくりと息を吐くと、陽子は瞬き、最後のひと雫を睫の先から払い落とした。

――心を持たない、優しい獣。これが麒麟なんだ……。

「そう命じろとおまえは言った。そうできていたら、どんなによかっただろうと思う。けれど命じて手に入るものなど、わたしは欲しいとは思わないんだ。おまえのせいじゃない。――きっとわたしの望みは過ぎたものなんだろう」

そうである以上、景麒にこれ以上のことを望むべきではないと陽子は思った。この腕の中は、自分のいていい場所ではないのだと。

さしのべられた景麒の手から、陽子は静かに身を引く。

「こんなことを、おまえに強いるべきじゃなかった。――許してくれ」

「――主上」

「もう二度とあんなことは言わないし、こういうことも起こらない。約束する」

「主上」

その声から耳を塞ぐように、陽子は目を閉じたまま背中を向ける。手の中に残っていた金色の髪の、最後の一筋が床に落ちた。

「……ひとりにしてくれないか」

耳に痛いほどの空白があった。

やがて背後で静かに身体を起こす気配がして、袍が床をかすめる音が耳に届いた。陽子は息を殺したまま、ほとんど足音を立てない景麒の気配が遠ざかっていくのを聞いていた。

かすかに軋んだ堂扉から冷たい夜気が入り込み、そして再び閉ざされる音がした。

床の上に横たわったまま、陽子は手足を引き寄せて、小さく身体を丸める。――外界を拒絶する、胎児のように。

そのとき陽子は最後まで気づかなかった。

手を離せ、と命じた自分の言葉には、景麒がついに従わなかったことに。

【２】　　　　　　　　　　【４】

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