自由、夜

【６】

工事の前の大事な時期でもあり、大げさな視察にはしたくないという陽子の意見が通り、王の護衛のために付き従ってきたのは禁軍兵ではなく、大僕である虎嘯だった。

虎嘯を中心とする、ごく小規模の護衛と官吏を連れて、陽子は各州を見て回った。州侯の中には、王の訪問に警戒を示す者もないではなかったが、慶の将来を左右する大事な事業だから直接見ておきたいのだと言われれば、表立って抵抗する者もまたなかった。

どれほどうまくいっている国でも、王と州侯との間には常に微量の緊張が伴う。まだ大国とも呼べない慶ではなおさらのことだったから、それについては陽子もさほど気にしなかった。要は国が富めばそれでいい。

各地の河岸では、雁国から招いた技師の指導を受けて、工事の準備と測地が進んでいた。まもなく秋の収穫を終えた民たちが集められ、ひと冬をかけて堤の補強と灌漑工事に従事することになるだろう。それが農閑期の雇用を拡大する助けにもなるはずだった。

最後の予定地を見届けて、州城を辞した頃には、陽子たちが金波宮を後にしてからすでにひと月近くが経とうとしていた。

明日は尭天に向けて出立するというその夜、陽子は虎嘯の元を訪れた。

房室にいない虎嘯を探しに外へ出ると、彼は舎館の厩舎で騎獣の世話をしていた。大僕ともなれば、騎獣の世話くらい下官にまかせてもよさそうなものだったが、虎嘯は身の回りのことは自分で済ませるのを好んでいるようだった。

――拓峰にいた頃と少しも変わらない。

笑いを堪えながら陽子が声をかけると、虎嘯は汗を拭って立ち上がった。

「――禁軍で働きたいとは思わないか」

そう切り出すと、虎嘯はひどく驚いたようだった。

「以前拓峰で、虎嘯が軍に入りたいと言っていたのを覚えている。けれど金波宮に来てもらうことになったとき、まだ何かと不穏な朝廷でわたしを警護するために、虎嘯にはあえて、夏官の中でも私的な護衛の意味合いの強い大僕に就いてもらった。それには心から感謝している。――でも、そろそろ虎嘯には、本当にやりたいことをやってほしいと思うんだ」

随分長い時間がかかってしまったけれど、と陽子は苦笑する。

「実は、桓魋にはすでに内々に話しをしてある。彼は喜んでくれたよ。異動といっても同じ夏官府の中だから、そう大げさなことにはならないと思う。長い間大僕として勤めてくれた実績を、禁軍の中でどれくらいの地位として遇したらいいのか、その辺りは周囲とよく相談して決める。もちろん虎嘯がそう望むなら、の話しだけど」

虎嘯は腕組みをしたまま、長い間何も言わなかった。見守る陽子の前で、やがて太い息を吐く。

「――陽子はそれでいいのか」

「うん。わたしのことならもう、大丈夫。寂しくなるけど、能力のある官には、その能力に適した場所で自分を生かしてほしい。その方がずっと大事なことだから」

虎嘯はなおも迷うように、厩舎の小さな窓の外に目をやっていたが、もういちど大きく息をつくと、陽子の方に向き直った。

「そういうことなら、喜んでやらせてもらう」

ありがとう、と顔をほころばせた陽子に、虎嘯は照れたように頭をかいた。

「礼を言うのはこっちの方だ。いくらかでも役に立つっていうなら、禁軍も悪くねえ。同じ宮仕えなら、無骨者の俺には軍隊の方が向いてるんだろう。――だがな、これだけは覚えておいてくれ」

そう言って、虎嘯は大きな掌で陽子の肩を叩いた。

温かい手だった。

「俺は、大僕の役目を不満と思ったことはいちどもない。後任は俺にも充分納得のいく奴にしてくれ。――いつも突拍子もないことばかりやってのける王の傍で、にやにやしたり気を揉んだりするのは、なかなか楽しかったからな」

◆ ◆ ◆

白々と明けてゆく夜の中で、こうすればよかったのだと陽子は思った。――選択をその手にゆだねて、虎嘯をより広い場所に向かって送り出したように、景麒に対しても、同じようにすればよかったのだと。

そう思い至ったとき初めて、この長く辛いひと月、いちどとして胸を去らなかった重い塊が、ゆっくりとほどけ始めたような気がしたのだった。

対象を自分の傍に縛りつけることを、愛と呼ぶのではない。命じて何かをさせることでも、ましてや相手を変えようと無理強いすることでもない。

彼が麒麟以外のものにはなれないというのなら、自分の方がそれを受け入れるべきだったのだ。それを悲しむのと、彼が自分の傍にいてくれることを感謝するのとは、まったく別のことだった。

心が得られなくてもいいのだと、初めて陽子は思った。

自分が与えたものと同じだけのものを、相手に求めるのは間違っている。それで胸が痛んだとしても、それは自分自身の問題だった。

窓から射し込む夜明け前の青い光が満ちて、房室全体が深い水の底のようだった。その窓の傍の壁際にうずくまり、抱え寄せた膝の上で、陽子は静かに泣いた。

あの夜以来、泣くことができればどんなに楽だろうと思いながら、一度も流すことのできなかった涙だった。――自分は、こんなにも愚かだ。初めての恋に傷つくまいとするあまり、もうひとつの心を傷つけた。あれは他ならぬ、自分の半身だったのに。

今、ひとりで自分自身と向かい合い、景麒について考えることは、ほとんど身体的な痛みを胸の奥にもたらして、陽子は泣きながら何度も息を止めた。

こうして離れて過ごすことは幾度となくあったけれど、あの静かなまなざしや低い声、あの夜、自分に触れた冷たい手が傍にあってほしいと、今ほど強く願ったことはない。そのためならどんなことでもすると、その瞬間、すべての制止を振り切って心の底から流れ出す、狼狽するほど激しい感情があった。

――ああ……だとしたら。

今度こそ認めなくてはならない。泣き疲れた身体で壁に凭れながら、陽子は深く、何かに向かって首を垂れる。

ただそれだけの為に、これほどまでに長い時間が必要だったけれど。

――やはりわたしは、景麒を愛している。

【５】　　　　　　　　　　【終】

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