胡蝶の夢

【七】

先刻から何度となく戸口の方を振り返っていた蘭玉が、堪りかねたように繕い物を脇に押しやって立ち上がった。そのまま窓に近づいて格子をずらし、当てもなく外の暗がりを窺う。

「……いったいどこへ行ったのかしら」

ため息混じりの呟きには、焦燥の色が濃かった。

「こんな風に黙っていなくなることなんて、今まで一度もなかったのに……」

あなたにも本当に何も言い残して行かなかったのよね、と縋るように念を押され、景麒は黙って頷く。

陽子が姿を消してから、今夜で二日が経とうとしていた。

昨日の朝、皆が起き出した頃には、すでに陽子はいなくなっていた。小房の様子を見る限り、遠出の支度をした跡もなかったから、じきに戻ってくるだろうと最初は誰もが思っていた。だが、夕暮れになり、深夜になっても陽子が戻る気配はなかった。

そのまま夜が明け、何の音沙汰もなく一日が終わった。不安げに落ち着かない子供たちを宥めて夕餉を取らせ、ようやく寝かしつけてからしばらく経つが、蘭玉は框窓の傍を離れようとしない。

いつかの深夜、陽子が納屋の壁板に隠していた剣がなくなっていることに、景麒だけが気づいていた。

浮かない顔つきで戻ってきた蘭玉が、繕い物を拾い上げたときだった。

きわめて慎重なやり方で、裏の戸口を叩く音がした。

蘭玉が弾かれたように立ち上がり、土間を横切って木戸に駆け寄る。止めようとしたが間に合わず、景麒もその後を追った。

戸口に手をかけながら、蘭玉が気忙しげに囁く。

「陽子？　……陽子なの？」

「――いや」

返ってきた太い男の声に、蘭玉がびくりと手を引く。数日前、裏庭で聞いたのと同じ声だと景麒は思った。

「俺は虎嘯という。遠甫には以前、弟の夕暉が世話になったことがある。……そう言えば通じるはずだと陽子が言った」

相手の警戒を先回りするように、声の主は羽板の隙間から手をかざして見せた。――無骨な指に嵌められた、細い鉄の環。

蘭玉が短く息を呑む。確かに心当たりがあったのだろう。わずかにためらった後、蘭玉は支棒を外して木戸を開いた。

見るからに屈強な体躯の男が、戸口を塞ぐように立っていた。匪賊と言われてもおかしくないほどの厳つい風貌を前にして、蘭玉が思わず後ずさる。

すばやく屋内を見渡した虎嘯は、後ろに立つ景麒の姿に目を留めて、一瞬険しい表情を見せた。それから視線を改めて娘を見下ろす。

「あんたが蘭玉か」

頷いた蘭玉が口を開こうとするのを制して、虎嘯は低い声で続けた。

「これから仮の落ち着き先に連れて行く。子供らを起こして、すぐに支度してくれ」

「でも、いったい陽子は……」

「詳しい話をしている暇はない」

縋るような蘭玉の声を、虎嘯はぶっきらぼうに遮る。

「陽子に何かあった場合には、あんたらの世話を引き受ける。陽子とはそういう約束になっている」

「……そんな」

「陽子は二日前に姿を消した、今もまだ戻ってこない――そうだろう。違うか」

「ええ……でも」

「遅くとも今日の昼までには戻ってくるはずが、俺たちとも連絡が途絶えた。だから取り急ぎあんたらを迎えに来た。――時間がない。急いでくれ」

声もなく虎嘯を見上げた蘭玉は、青ざめた顔で奥へと駆け込んでいった。

手早く窓際から灯りを遠ざけると、男は景麒を振り返る。

「あんたもだ。早く支度しろ」

景麒は首を横に振った。

「わたしはここに残る」

「――何だと」

聞き咎めた虎嘯の表情が、にわかに険しさを増す。

「残って何をするつもりだ」

「あの方を待つ」

静かな返答に、虎嘯は一瞬毒気を抜かれたような顔をした。

「……陽子のことか」

「あの方がわたしをここへ連れて来て下さった。わたしをここから連れ出せるのも、あの方だけだ」

何が起ころうと誰が現れようと、もう驚きはしないと景麒は思う。――奇妙な符牒が散りばめられた、もう一つの世界。少しずつ位相を変えては立ち現れ、通り過ぎていく人々の姿。

どんな事象の前にあっても傍観者でしかない者に、それでもなおできることがあるとすれば、それは虎嘯に強いて事情を説明させることでもなく、陽子が姿を消した理由を問い詰めることでもなかった。

何とも言えない表情で景麒を眺めていた虎嘯は、ややあって無愛想に呟いた。

「……陽子はもう、帰ってこないかも知れんぞ」

何も言わない景麒を見て、虎嘯は苛立ったように続ける。

「里家の者を残らず連れ出してくれと頼まれてるんだ。陽子は当然、あんたのことも含めてそう言ったんだろうが」

「あの方に直接命じられたのでない限り、従う理由がない」

「訳の分からんことを……」

声を荒げかける虎嘯を、景麒はすげなく遮った。

「わたしのことはいい。蘭玉と子供たちを」

これ以上話し合うつもりはない、と言外に告げる景麒の顔を、虎嘯は無言で睨みつけていたが、やがて苦り切った表情で吐き捨てた。

「どの道、もうこの場所に用はなくなる。――好きにしろ」

◆　　　　　　　　　　　　　　◆　　　　　　　　　　　　　　◆

奥の房間から蘭玉が出てきた。急いでまとめたらしい小さな包みを胸に抱え、まだ眠そうな子供たちを急き立てている。

真夜中に揺り起こされ、訳も分からず床から引き出された子供たちは、見知らぬ大男の姿に気づくと、たちまち怯えたように後ずさった。

大丈夫、この人は陽子の友達だから、と宥める蘭玉には構わず、一瞥して頭数を確認した虎嘯は、裏口に向かって無造作に顎をしゃくる。

「まずは半分が先に行け。年上の奴からだ」

すくんだまま動けない子供たちの前に膝をつくと、景麒は静かに手を添えて促した。

「怖がる必要はない。……行きなさい」

陽子が虎嘯に任せると言ったのであれば、その判断に間違いはない。縋るような目を向けてくる子供たちに、景麒は別れを告げる代わりに頷いて見せる。今夜を境に、もうこの子たちの顔を見ることは二度とないだろうという不思議な予感があった。

裏庭に出ると、利発そうな目をした黒髪の少年が待っていた。夕暉、と兄に目配せされた少年は、優しげな笑顔を子供たちに向ける。

「事情があって灯りがつけられないから、暗いのを少しだけ我慢してもらうことになるんだ。迷子にならないように二人ずつ手を繋いで、僕の後について来てくれるかな。……うん、それでいい。じゃあ行こうか」

残った子供たちを連れて、虎嘯が裏門に向かう。桂桂の手を引いて後に続こうとした蘭玉が、ふと何かに気づいたようにこちらを振り返った。

戸口に佇んだまま動かない景麒の姿を見て、その目が大きく見開かれる。

ああ、と嘆息の形に唇を動かすと、蘭玉は弟の手を離して駆け戻ってきた。そうして彼を見上げて口早に囁く。

「納屋の床下に土房があるの。何かあったら、わたしたちもそこに隠れるつもりだった。あそこならきっと、誰が来ても見つからずにいられると思う」

娘は景麒に翻意を促そうとはしなかった。どれほど身勝手と謗られようと、人は土壇場において、自分が大事に思うものを他のすべてに優先させる。彼女にとってはそれが弟であるように、彼もまた陽子なくして里家を離れるつもりはないのだということを、蘭玉は一目で察したようだった。

許しを乞うように景麒を見つめ、蘭玉は声にならない声で囁いた。

――陽子を、お願い。

【六】　　　　　　　　　　　　　【八】

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