記憶の旅人
【Ⅱ】
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風脈に乗った使令の脚は速い。 五山の麓を取り囲む峻峰がみるみる背後に遠ざかり、眼下の大地は黄褐色の荒野へと変わった。乾いた地表には一面の砂礫と岩石、ところどころに捩れた潅木の影しか見えない。 右手の彼方に、広大な沼地がその一端を見せ始めた。まばらな葦の生えた湿地の中に、濁った水溜りのような沼が点在している。ああした場所には強い瘴気が澱んでいるから近づいてはいけないと、以前教えられたことがあった。沼の中には酸毒を好む生物が棲みついていて、瘴気に巻かれた獲物が落ちてくるのを待ち構えているのだという。沼の上空にさしかかった鳥が、突然狂ったようにもがき始め、水面に墜落したと思うまもなく、浮かび上がってきた影が巨大な口を開き、大量の泥水とともに鳥を呑み込んでいったのを遠目に見たことがある。 沼地を大きく迂回すると、班渠はさらに南へ向かった。 人の足が何日もかけて渡らなくてはならない距離を、妖魔の脚はいともたやすく飛び越えていく。時折、見えない地面を蹴るように班渠が脚を動かすと、そのたびにぐんと高度が上がる。一呼吸遅れて身体がふわりと持ち上がるのが楽しくて、幼い麒麟は小さく歓声を上げた。 やがて真っ直ぐだった地平線に不規則な刻み目が生じ始めた。身を乗り出した景麒に、疾走しながら班渠が告げる。 「――もうすぐです」 四肢を撓めた使令が大きく跳躍したとき、眼下の大地に深い亀裂が姿を現した。景麒は思わず息を呑む。 ――飛翔するその真下を、延々とうねりながら続く地表の裂け目。 その両脇は深く切り立った断崖となり、亀裂に沿って複雑に入り組みながら、何千里とも知れない大渓谷を地中に造り上げているのだった。 まっすぐに下降した班渠は、そのまま渓谷の狭間をめざす。崖に沿ってしばらく惰行すると、安全な岩場を選んで着地した。 使令の背から降りて、景麒は周囲を見渡す。 絶壁のところどころに古松が根を張り、くすんだ緑となって岩肌を彩っていた。目が眩みそうなほど遥かな谷底には、細い河が流れている。頭上には、崖に両側を切り取られた空が細長く延びていて、今まで地面だった場所が空に変わっているのが不思議だった。 ――ここなら、見つかるかも知れない。
さっそく他の使令を呼び出して、青い花を探してほしいと告げると、頷いた小物たちは弾むように四方へと散っていった。こんなに広い場所を本当に探して回るつもりなのか、と言いたげな班渠を従えて、景麒もあちこちを覗き込みながら岩場を辿っていく。 日はすでに中天高く昇っていた。 きつくなる一方の陽射しを案じて、女怪が翼を広げて庇ってくれるのにも構わず、景麒はひたすら花を探し続けた。 どんな花なのだろうと思う。――余りある祝福、という名を持つ奇蹟の花。きっと輝くように美しい姿をしているに違いない。 途中、喉の渇きを覚えて谷底に降りようとすると、班渠がすかさずそれを止めた。あの河の水にはどんな獣も決して口をつけないのだという。しばらく辺りを探していた班渠は、やがて谷間の一角に湧き水を見つけると、慎重に匂いを確かめた後、ここなら大丈夫だと少年を促した。 時折からかい半分に荒っぽい遊びを仕掛けられることはあっても、幼い麒麟にとって最も頼りになる使令が、この班渠だった。ともすれば過保護にもなりがちな女怪や女仙とは異なり、ほんの少しの距離を保って、小さな主を冷静に見守っているようなところがある。それでいて、少しでも危険のある場所では必ず先に立ち、安全を確かめてからでなくては決して進ませようとしないのだった。 まだ転化を覚える前後、遊びの延長のようにして従えた小物は、麒麟自身が成長するにつれて力不足になっていく。自らの手足と恃むに足る力量を備えた妖魔は、明確な折伏の意志をもって初めて下すことができるのだ。 班渠はまさにその筆頭格だった。 ――後に、驃騎と名づけられた強大な妖魔が、班渠に肩を並べる存在として使令の最前列に加わることになるのだが、それはもう少し先の話になる。
◆ ◆ ◆
時間をかけてかなりの範囲を探し回ったが、渓谷は広大で終わりがなかった。 青い花はどこにも見当たらなかった。 湾曲した松の群生を除けば、岩陰には雑草の類がわずかに生えているばかり、そもそも渓谷という地形自体が植物の生育には向いていないのだ。ため息とともに顔を上げたときには、辺りにはすでに宵闇が広がり始めていた。 もう蓬山に戻らなくてはいけないとくり返し諌める女怪の言葉も、本気になった幼い麒麟を止めることはできなかった。途中からは班渠でさえ焦燥の色を見せ始めていたが、花が見つかるまでは絶対に帰らないと、景麒は頑なに言い張り続けたのだった。 急速に暗くなっていく空を見かねたように、班渠が口を開く。 「今から戻っても日没には間に合わない。夜になってから黄海の上を飛ぶのは、最も危険なことだ」 黄海の妖魔は夜行性だ。日没とともに目を覚まし、それぞれの巣穴から這い出して活発に捕食を始める。 では……と景麒を抱き寄せた芥瑚に、班渠は背中を向けて騎乗を促した。 「心当たりの場所がある。――とりあえずそこへ」
幾つかの岩山を越えて辿りついたのは、渓谷の支脈にある谷陰だった。 ほとんど絶壁に近い急斜面、その中腹に小さな洞穴があった。飛翔できない生き物は登ってくることができず、張り出した松の枝に覆われて、上空からも見つけにくい。 入口から続く隘路は、意外に奥行きのある岩棚に向かって一段高くなっている。目に見える痕跡こそなかったが、随分前には何物かの棲み処として使われていたような、薄い生活の気配が辺りに残っていた。 「もしかして、前にもここに来たことが……？」 物珍しげに洞穴の中を見回した少年は、声をひそめて尋ねてみたが、班渠の返事はなかった。なので、それは答えられない領域に属する事柄なのだろうと景麒は納得する。たとえ折伏されても、自分の種族や生態については一切を黙して語らないのが妖魔という生き物だった。 暮れた空に残照らしいものも残さず、渓谷は唐突に夜の底へと沈んだ。 幼い主を女怪に預けて、班渠は洞穴の入口に控えている。四肢を折って首をもたげ、油断なく外を見張っている後ろ姿が、薄い月光で銀色に縁取られていた。 岩棚の奥で横になり、芥瑚の膝に抱かれながら、景麒は暗闇を見上げる。 生まれて初めて、蓬山の外で迎える夜だった。 黄海の夜は濃密で深い。こうして横たわっていると、凝った闇が身体にのしかかってくる重みすら感じられるようだった。暗闇に浸されて輪郭を失った身体から、感覚だけが冴え渡って広がっていく。 山々を押し包み、谷底を隠した暗がりの彼方から、時折かすかな物音が聞こえてくる。――木霊をともなった奇怪な啼き声、梢を揺らす乾いた羽音。地を這いずる重い気配。 辺境にあって、夜は決して静寂のための時刻ではなかった。蠢く無数の生命を押し包み、絶えず揺れざわめくその闇の中に、幼い麒麟の小さな鼓動も溶け込んでいく。 ――明日、青い花を見つけたら。 摘み取るのではなく、根ごと掘り返して大切に持って帰ろう。それはきっと、まだ見ぬ生国――慶にとっての宝重となるはずだから。 女仙の話や書物を通して、国には宝重というものがあるのだと知っていた。不思議な力を備え、数々の恩恵をもたらすというその宝を、国中で唯一人、王だけが用いることができるのだという。だとしたら青い花も、王の手によって国中に広がり、必ずそこに住む人々を癒してくれるはずだ。 ――王さえいれば。 どんな宝重にも癒すことのできない、生まれながらの悲しみを抱えたまま、小さな麒麟は眠りに落ちていく。 その背中を女怪の手があやし、乱れた金髪を優しく撫でた。 夜の渓谷の底深く、涼気を孕んだ風が流れていく。
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