記憶の旅人

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鳥の囀りに誘われて外に出てみると、谷間にはうっすらと青い払暁の気配が射していた。

深い靄の底からぼんやりと渓谷の輪郭が浮かび上がっているが、朝日はなかなか姿を見せようとしない。切り立った崖底に太陽の光が届くまでには、夜明けからさらに数刻が必要なのだった。

夜通し見張りをしていた班渠の横に並んで座り、景麒は膝を抱えたまま、少しずつ光を湛えていく景色を眺めていた。

――朝を迎えるたびに、世界は生まれ変わるのだろうか。

濃密な闇の中で感じた、あの重苦しいざわめきはもうどこにもなかった。辺りには清浄な気配が満ちて、洗われたようにすがすがしい、張りのある鋭気を含んだ風が谷を渡っていく。

向かいの崖の先端に、強い金色の光が射した。見る間に広がっていくその光は、斜面の岩に照り映えながら明るさを増し、やがて靄を吹き払った渓谷の姿が一息に朝を迎えて立ち現れた。

思わず声を呑むほどの、あざやかな変容だった。

幼い主を振り返って、班渠が口を開く。

「そろそろ蓬山へ戻る気になられましたか」

谷間の朝に見とれていた表情を引き締めて、少年は首を横に振った。

「帰らない。花を探す」

班渠と芥瑚が同時に深いため息をこぼす。唇を結んで立ち上がった少年は、本当は足が痛むのだとは絶対に口にするまいと決めたのだった。

◆　　　　　　　　　　　　　　◆　　　　　　　　　　　　　　◆

谷間に下りて歩けそうな岩場を見つけると、景麒は再び探索の続きを始めた。青い花を手にするまでは、諦めるつもりなど少しもなかったが、前日とは違い、底の柔らかい絹沓を通して、踏みしめる岩の感触を辛いと感じるようになっていた。

空気は早くも熱を孕み始めていた。

夜間に冷え込んだ空気が急激に暖められ、岩々の隙間で膨張すると、浸食されて脆くなった部分が崖面から剥がれ落ちる。時折、谷間のどこかでからからと音を立てながら、大小の岩片が谷底に落下していくのだった。

岨伝いに進んでいくと、入り組んだ懸崖の向こうからかすかな音が聞こえ始めた。辺りの空気を震わせる、地鳴りのような響きだった。途切れることなく、近づくにつれて岩壁に反響しながら大きくなっていく。

やがて峭壁の合間から、巨大な滝が姿を現した。

水がこんなにも大きな存在に成り得るとは、今まで考えたことがあっただろうか。事実、それは水というよりも、視界を埋め尽くす白い絶壁のような存在感で、高く広く聳え立っていた。

景麒は茫然と足を止め、目の前に現れた瀑布を見上げる。

遥か上方の崖端から、何十丈という幅を持った水が崩れ落ちてくる。こうして立っているだけで、轟音と水圧で全身を打たれるようだった。張り出した岩にぶつかって濛々と飛沫を上げ、谷底へとなだれ落ちていくその先は、濃い水煙に押し包まれ、覗き込む傍から引きずり込まれるように深い。

息を吐いて顔を上げ、ようやく周囲を見渡したとき、突き刺すように視界を捕らえたものがあった。――反対側の崖の端。風に煽られて翻る、小さな青い影。

心臓が大きく鳴った。

「――班渠！」

使令を呼ぶのももどかしく、景麒は断崖から身を乗り出す。

その身体を掬い上げるように背中に乗せると、班渠は岩を蹴って跳躍した。反動で崩れた石塊が、滝壺の底に吸い込まれていく。

飛沫を受けながら水壁を横切り、目指す岩場に降り立つと、使令の背から滑り降りた景麒は急いで崖の端に駆け寄った。――今度こそ青い花に違いない。

だが、岩陰を覗き込んだ瞬間、少年は失意で目の前が暗くなるのを覚えた。

それは花ではなかった。どこから飛ばされてきたのか、古びた衣らしき残骸が、元の青さをわずかに残したまま、滝壷から吹き上げる風にはたはたと揺れているだけだった。

声も出ないほど失望した少年が、それでも諦め切れずに手を伸ばそうとしたときだった。

ひときわ強い風が崖を吹き抜ける。布の端がふわりと持ち上がり、その下に隠されていたものがあらわになった。

――乾いた白骨の塊。

湾曲して折り重なった数本の骨。その周りに散乱する、奇妙な突起のついた骨片。古びた衣とあいまって、嫌でも想起させる光景――まるで何者かがここに放置され、そのまま息絶えて骨と化したような。

ぞくりと背筋が粟立ち、景麒は反射的に後ずさった。

よろめいた足元で岩が崩れる。歩き疲れた足は、それ以上踏みとどまることができなかった。

とっさに噛み支えようとした班渠の牙が、かろうじて少年の袖を捕らえたが、落下の勢いであえなく引き裂かれる。そのまま墜落していこうとする小さな身体を、飛び出した芥瑚がすんでのところで抱き止めたが、上から落ちてくる岩までは止められなかった。

弾みをつけて転がり落ちてきた岩塊が、袖を失った腕にぶつかる。肩が痺れるほどの衝撃とともに、喰い込んだ角が柔らかな皮膚を抉った。

鋭い痛みに呻いて腕を庇うと、指先に熱いものが触れた。火傷のような熱さだった。打たれた腕に目をやって、景麒は喘ぐように息を止める。

鮮烈な赤――抉られた箇所から広がっていく血の、怖ろしいほどあざやかなその色。

恐いとは感じなかった。

血を見てしまったことよりも、むしろ恐さを感じなかったことの方に驚き、その短い一瞬、少年は混乱の中でその色を見つめた。

麒麟は血を忌避する生き物だ。他者の流す血を見れば、無条件で身体が竦む。だが一方で、自分の中にも間違いなく同じものがあり、同じように脈打って流れているという事実が、剥き出しの形で目の前にあった。

――この矛盾を、どう受け止めたらいいのだろう。

だが次の瞬間、急速に暗くなった視界が反転し、少年の意識はそこで断ち切られた。

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